先日、久々にTVを見た。すると、とある報道番組が、”Go To トラベルキャンペーン”なるものを取り上げていた。ネーミングからして民間っぽいので、何かの詐欺まがい商法でも問題になっているのかと思いながら見ていると、それが政府のやっている事だと言うから、少し驚いてしまった。
論客たちの論調は、多くの場合、”何をやったか”ではなく、”誰がやったか”によって決まる。そして、政府の様な権力の側がやったとなると、その論調は殆ど例外なく批判的なものになる。何の責任も取る必要のない人間が、一般庶民のルサンチマンを揺さぶる様な発言― リップサーヴィス ―をしては得意がる。政府関係者のモチベーションに与える影響を考えると、彼らのやっている事はマイナスでしかないのだが、そんな事など彼らには関係ないのだろう。彼らにとって重要なのは、”自身の生活”であって、”社会”ではないのである。
一般に、実務的な仕事ならではの難しさは、調整型の判断をしなければならないという点に集約されている。これは、医師と医学者との比較で考えれば、分かりやすいのではないだろうか。例えば、治療の難しい癌の場合、医学者― 実務的でない仕事の従事者 ―であれば、その治療法のみをひたすら探求し続ければ良い。しかし、これが医師― 実務的な仕事の従事者 ―となると、目の前には日々刻々と進行する癌に苦しんでいる患者が実際にいて、それを何とかしなければならない訳である。
こういった場合の判断というのは、多分に鳥瞰的なものになる。つまり、癌細胞は極力抑える、患者の苦痛は可能な限り和らげる、患者の意思は尊重する…といった感じで、様々な要因を総合的に判断し、最も理想に近いものを探さなければならないのである。この最適解に対する批判は、それが如何に事実に基づいていたとしても正しくない。例えば、抗癌剤の副作用― これは、確かにある ―を声高に叫んでみた所で、それを使用する事が、その状況に於ける最適解である― それより優れた代案がない ―以上、それは投与されるべきなのである。
私が視聴した番組での、”Go To トラベルキャンペーン”に対する批判は、概ね東京都のみを除外する事に対するエビデンスの欠如であった。つまり、なるべく経済を回復の方向に向かわせつつ、一方で、コロナウィルスの蔓延を防ぐという方針は分かるが、それが何故に、― ”大都市圏全てを除外”でも”除外区域なし”でもなく” ―東京都のみ除外”になるのかという事である。つまり、単なる思い付きに過ぎないではないかと。だが、現状で良い訳はないのだから、少なくともここは、何らかのアクションを起こすべきではないだろうか。取り敢えず試してみて、試行錯誤を繰り返しながら改善して行く…確かに、国がやるにしては、適当すぎる様に思える。しかし、一方で、有力な資料― エビデンスがあるとすれば、おそらく、これが中核を為す ―など探せようはずもない、近年に於いて未曾有のパンデミックを前に取る初期段階の措置としては、― 最適解とまでは言わないが ―あながち間違ってもいない様に思える。
完璧でない事を理由とした、代案なき批判であれば馬鹿でも出来るというものである。あの程度の論客しか、いないのだろうか。私も、また当分はTVを見ない生活が続きそうである。