少し古い時代の人たちに言わせれば、現代人の言葉は乱れているのだと言う。例えば、”ら抜き言葉”などは、その典型であるとの事である。だが、この”乱れ”の意味が、私にはよく分からない。
”乱れているか否か”を評価するには、当然に”何が正しいのか”が明確でなければならない。しかし、これらの者たちの話を聞くと、彼らは自らが馴染んで来た言葉を”正しい”と、頭から思い込んでいる様である。だが、彼らが馴染んでいる言葉にしても、彼らよりも古い世代の人たちから顰蹙を買っていたであろうし、その古い世代の人たちにしても、やはり同様であろう。日本語(のみならず、言語)は、そうやって世代間に於ける小さな変遷を繰り返しつつ、継承されて来ている。だからこそ、現代人の多くは源氏物語を読む事が出来ないし、私が入試で古典の問題に挑んだ際も、鉛筆を転がして答えを決定しなければならなかった訳である。
言語は、生き物である。肯定と否定が繰り返され、改善されて行くものである。例えば、ある時代のある地域に発生した言葉は、使い勝手の良いものであれば広く後世に受け継がれて行くだろうし、そうでなければ廃れて行くだろう。こういった、言語の使い手たちによる自然選択により、言葉は進化して行く。つまり、言語の進化の過程は、本質的には生命の進化の過程と同じなのである。
そう考えれば、古い言葉を意図的に残さんとする行為が、如何に馬鹿げたものであるかは、良く分かるというものだろう。ちなみに、”最近の若者は…”という言葉は、古くは古代エジプトの壁画に見られるらしい。つまり、何の根拠もなく”自分の慣れ親しんだ文化こそが、絶対的に正しい”と思い込んでしまう- 同時に、それを社会的弱者に押し付けてしまう -愚かしさは、斯くも古くから繰り返され続けて来ているという事である。
言語が生き物である事、そして、それが進化するものである事を考慮した上で― つまり、洗練されて行く過程(進化)の邪魔をしない様 ―(正しい)日本語を定義するならば、”日本語圏に於いてそのまま、若しくは、僅かな説明を以て通用する”といった辺りで良いのではないかと思う。思い込みや偏見からは、何も生まれない。”従前、使われていなかった”というだけの瑣末な理由で、”そんな日本語はない”と鬼の首でも取ったかの様に声高に叫んでみた所で、それは、日本語の持つ可能性の芽を摘む事にしかならない。