権威主義

 ”医者の不養生”という諺がある。言葉に実行が伴わぬ事の例えであり、少なくとも、良い意味でない事だけは確からしいが、私には、これのどこに問題があるのかが、いまいち良く分からない。
 医師の仕事は、患者の病気の治療であり、予防である。断じて、自分の健康を管理する事ではない。それを知人に言うと、それはそうだが、医師がそれでは、説得力がないと言う。しかし、これも私には、よく分からない。私は、相手の話に説得力があるか否かは、客観性と論理性のみで判断する。つまり、十分な根拠があり、論理的に正しければ説得力があるとみなす。逆を言えば、それがなければ、誰の言葉であれ― ホームレスであれ、日雇い労務者であれ、ノーベル賞学者であれ、総理大臣であれ ―、等しく価値のないものと判断する。なぜなら、重要なのは、その発言内容が正しいか否かという、ただ一点であり、その発言を行った口の持ち主が誰かという事や、どういった行動を取るかという事は、埒外の問題だからである。
 自分が権威主義者か否かを的確に判断するのは、多くの人間にとって簡単な事ではないらしい。先日、知人たちとの会話の中で、私は、この前の芥川賞(第157回)を受賞した沼田真佑氏が、いま通っているジムのトレーナーの従兄弟らしいという話をした。すると、その会話に参加していた人物の一人が、小説家を目指している別の一人― この人物には、私が時々、文章の手ほどきをしている ―に対し、次の様な発言を行った。

「もし君が、それなりの結果を出したら、君を認めるよ。芥川賞とは言わないまでも、何らかのメジャーな賞を受賞したらね」

 私は、すかさず次の様に言った。

「それは、単なる権威主義ではないのか?君は、”実力は、正当に認める”と言いたいのだろうが、君の主張は畢竟、メジャーな文学賞の権威を信仰しているに過ぎないという事を、暗に示唆してはいないか?」

 もし仮に、私が彼の様な発言をするならば、私は次の様に言っていたはずである。

「もし君が、優れた小説を書いたら、君を認めるよ」

 優れた作品というのは、世に認められた瞬間から、優れた作品になるのではない。その作品が誕生した時点で、既に優れているのである。にも関わらず、その事実と世間一般の認識との間にタイムラグがあるのは、それは、世の多くの人間が愚かであるからに他ならない。
 こういった事は、例えば、絵画の世界などでも起こる。もう、10年ほど前の話になるが、とある絵がゴッホの作であると発覚した途端、その絵に億の値が付いた事がある。無論の事、この事実は、その絵が持つ芸術的価値(※)が向上した事を意味する訳ではない。その絵が持つ芸術的価値は、この世に誕生したその瞬間から(風化などの、物理的変化を無視すれば)不変なのである。にも関わらず、金額だけが大幅に変化するのは、芸術的価値が原則的に不変であるのに対し、金銭的価値は需要と供給のバランスにより変化する― 芸術的価値と金銭的価値は、全く別の次元の問題である ―からに他ならない。
 私は、その発言をした人物に対し、先の絵の金銭的価値を大幅に向上させた凡百の愚か者たちと彼との間に、本質的な差異はないという事実を指摘した。すると、彼は、私の発言に対し酷く激昂し、そのまま店(現場は、カフェである)を出て行ってしまった。

 物事を的確に認識するには、思考の純度を高いレベルで維持しなければならない。そして、その高い純度を実現するためには、本質と非本質の選り分ける能力、すなわち、高度な抽象的思考力が必要となって来る。当たり前の事だが、先日は改めて、その事実に気付かされた。世間と関わるというのは、厄介なものだな…私はつくづく、そう思う。

※:これは、”絵画の芸術的価値”というものが、本当に存在するならばという前提に立った上での話であり、私は、この前提そのものが、極めて疑わしいと考えている。