青少年の頃の思い出⑤

 小学校の高学年の頃、家庭科室の脇にとある観察の経過が書かれた大判の紙が貼ってあった。それには、三角フラスコの様なものが書かれてある。中には、魚の干物の様なものが糸で吊るされている。その周囲の薄い青は、どうやらフラスコの内部が液体で満たされている事を表現したいらしく、説明文には、それが炭酸水である旨の事が書かれてある。同じ様な図は幾つかあるが、右に行くに従って、内部の魚の干物だけが徐々に小さくなっている。つまり、時間の経過と共に溶けて行く様を表現したい訳である。ちなみに、当時は― 今もだが ―炭酸飲料が人体に及ぼす悪影響が、一部の人たちの間で盛んに囁かれていた。そこに張り出されていたレポートは、どうやらそういった主張の正しさを訴えたいらしい。
 人間はとかく、人の発言の正しさを感情ベースで判断しがちである。例えば、「今日、道で5万円拾ったよ」と誰かが言ったとして、それを疑う人間は少ないだろう。ところが、これが「この時計、普通に買えば20万円するんだけど、5万円で買わない?」といった申し出となると、その主張は途端に胡散臭く思えて来る。何故なら、その申し出からは、”(相手が)得をしたがっている”という動機の存在が疑われるからである。或いは、”A:甘い薬”と”B:苦い薬”を例にとって考えてみると、人は「Aはよく効く」という主張よりも、「Bはよく効く」という主張の方を反論しづらいと感じる。何故なら、(発言者にとって)より支持すべく動機がないと考えられるのは、後者の方だからである(※)。そして、こういった人間の心理は、よく承認欲求の強い人間によって悪用される。つまり、周囲の人間に対しマウントを取る事を目的とし、世間的に正しいとされ易い― それを支持すべく動機の弱いと思われる ―方を支持するのである。例えば、世の中の新しい潮流― サブカルチャー ―をやたらと否定したがる人間の多くは、こういった類である。或いは、日本の戦争犯罪なるものをやたらと認めたがる人間の多くも、この種の人間と見て間違いないだろう。ちなみに、これらは日本の戦争犯罪の責任は自身も含めて引き継ぐとしながらも、それは建前であるに過ぎない― 実害がない ―と本音の所では思っているし、また日本が支払う賠償金なども所詮は人の金だと思っている。つまりは、国益を損ない先人たちの名誉を平然と汚す事により、― 体裁とは逆に、自身は何の損害も被る事なく ―自身の欲望を満たしているのである。卑劣と言う他ない。
 ところで、小さい頃から物好きだった私は、どういった反応が帰って来るのかが分かっていながらにして、先の炭酸飲料の実験に関する所見を当時の私の担任だった教師― 例の馬鹿 ―にぶつけてみた。

私 :「先生、ここに書かれてある実験は、何を示したいんですか?」
馬鹿:「(暫くの間、私を凝視して)炭酸飲料が体に悪いという事やろ?あんた、見て分からんの?」
私 :「しかし、同じ現象は、例えば炭酸水の代わりに酢を用いても起こりますよね?酢は、体に悪いんですか?」
馬鹿:「あんた、なに言いよんの」
私 :「いや、だから…ここに書かれてある主張が成立するのであれば、酢も体に悪いという事になりませんかと言うてるんです」
馬鹿:「酢は、体に良いに決まってるでしょ」
私 :「じゃあ、これは駄目やないですか」
馬鹿:「なしえ?(大分弁で”何で?”の意)」
私 :「いや、せやから…この実験結果だけでは良し悪しの判断が出来ん事を、さっき認めたやないですか」
馬鹿:「伊賀上さん、あんた、なに屁理屈言ってんの」
私 :「いやいや…正論ですよ。ほんなら聞きますが、あんたの言う”屁理屈”とは何ですか?」
馬鹿:「そういうのが屁理屈よ」
私 :「”そういうの”では、説明になってへんやろ。どういうのです?」
馬鹿:「だから、そういうのよ」

 学校は勉強のみならず、人格形成の場だとはよく言われるが、馬鹿な上に幼稚― 自身の考えの至らなさを認める度量もない ―な人間から、一体何を学べというのだろうか?是非とも、文部科学大臣にお聞きしたい所である。

※:無論の事、薬の味とそれが人体に与える影響とは別の議論であるというのが正論である。