少年の頃の誓い

 私には、少年の頃に抱いた一つの誓いがある。理屈っぽい子供だった当時、私の側には、そんな私を快く思わない大人たちが大勢いた。そんな彼らとよく議論になっていたが、論破された彼らが決まって吐く捨て台詞は、いつも決まっていた。

「お前は、若いから分からないんだ」
「お前が、もう少し成長すれば、分かる様になる」

 そんな大人たちに対し、私がいつも言っていた事がある。

「では、あなたには”分かっている”のですね?ならば、論証して下さい」

 相手が高知能者であれば、実に話は早いのだが、相手が凡人である場合、こちらの言いたい趣旨からして分からない場合が大半である。従って、多くの場合、補足説明が必要になる。

「”分かっている”とは、その論理構造が認識出来ている状態を指す言葉です。つまり、論理の伴わない”分かる”などあり得ず、それは単なる思い込みに他なりませんから、言葉としては”思う”が適切です。あなたは、”分かっている”のでしょう?ならば、論証出来なければおかしい。それとも、自身の思慮の浅さを認め、”思う”と言い直しますか?」

 こう反論されると、そう言われた大人は、口先だけのごまかしが簡単には通りそうにない事を意識し始める。もっとも、そこで自身の対応が不誠実であった事を認める様ならば、まだ救いもあろうというものだが、元来が中身のないものを、さもあるかの如く見せかけようなどというチンケな事を考える人間なだけに、人間の高は知れている。
 彼はムキになり、食って掛かって来る。しかしながら、元来が馬鹿なだけに、年長者である事を笠に着て空威張りするといった、お決まりのパターンを繰り返す以外に、良い方法を思い付かない。そこで、私は次の様に追い打ちをかける。

「”年長者が年少者よりも秀でている”という主張が正しくない事を示す事例など、幾らでもあります。つまり、年長者である事を以て優位性を示さんとするあなたの主張は、完全に破綻しているという事です。更に言えば、あなたよりも年長者が私の意見に賛同した場合はどうなります?そういった状況は当然、起こり得ますよ。つまり、”年長者が正しい”という命題を真とするならば、矛盾が生じる。この命題は、間違っているという事です。論理の初歩ですが、あなたには難しいかな?また、ついでに言っておきますが、ある事柄が正しいか否かという問題と、それを論じている人物の優劣は、根本的に別問題です。つまり、あなたの主張は端から論点を逸脱している訳です」

 こうまで言われると、どんな馬鹿でもごまかし切れそうもない事に気付き始める。また、この時点での彼は、目の前の青年に見透かされている事から来る不安と、その生意気な態度を前に、逃げ出したくて仕方がないが、引くに引けないといった感情に支配されてしまっている状態である。私の追い打ちは続く。

「”自分の方が年長者である”という武器にもならない武器を振り翳す以上の事が出来ないという状況そのものが、あなたが中身のない人生を送って来たという事実を、雄弁に物語っています。歳だけ食って中身が無い…そんなもの、自慢になりますか?まあ、恥にはなるでしょうけど」

 彼は、出来る事ならば良い頭を持って生まれて来たかっただろうし、チンケな人間になど生まれて来たくはなかっただろう。そう考えれば、憐れむべき存在なのかも知れないが、この種の人間を甘やかす事は、世の中にとって害悪にしかならない。私は、止めを刺しにかかる。

 私:「あなたは、年長でさえあれば、相手が亀であっても、自分よりも秀でている事を認めますか?」
相手:「亀と人間とでは、話は別だろう」
 私:「では、亀が人間と同等の知性を備えていたらどうです?」
相手:「それならば、認めるだろうね」
 私:「では、知的に勝る年少者が、知的に劣る年少者よりも秀でている可能性を認めるという事ですね?」

 相手は、ここで察したらしい。私は、更に続ける。

 私:「それでは質問です。人間に、知的な優劣はないのですか?」
相手:「いやいや…人間同士の場合は、話は別だろう」
 私:「いえ、それはおかしいですよ。あなたは先程、知性の問題は種の問題に優越する事を、認めた訳ですから」
相手:「… …」
 私:「種の問題をすらも優越するものが、年齢には優越しないのですか?あなた、本当に語るべきものがあって言ってます?単に、取り繕っているだけなのでは?」
相手:「… …」
 私:「ところで、あなたと私、どちらの方が知的に秀でているでしょうか?」
相手:「… …」
 私:「弱い者いじめが過ぎましたね。では、これで失礼しますよ」

 まあ、最後は沈黙を守った訳だから、彼は比較的マシな方だろう。これが、もう少し馬鹿で中身のない人間になると、論点をすり変えるか支離滅裂な発言を畳み掛ける事により、議論をあやふやな方向に持って行こうと試みる。私が小学生の頃、カードゲームで負けそうになると、カードをグチャグチャに混ぜ、自分の負けを無かった事にしようとする知人がいたが、その小学生と寸分違わぬ事を、大の大人がやるのである。
 以前、とあるTV番組で若者の精神的な未熟さが指摘されていた際、その番組にゲストとして出演していた江崎玲於奈氏(当時、筑波大学学長/ノーベル物理学賞受賞者)が、「若者だけでなく、”我々も”成長しなければならない」と言っていたのが印象的だった。昨今の若者は、年長者を馬鹿にしたがると言う。私は、ある意味で仕方のない事だと思っている。中身のない大人が多い。いや、中身がないだけならまだ良い。中身もないのに、年長者である事を笠に着て空威張りしたがる様な、そんな低俗な大人が異常に多い。江崎氏は私と同じ事を感じ、そんな現状を憂いて、ああいった発言をしたのではないか。そして、その当時と今とを比較してみても、余り状況は変わっていない。権力を持ち、また本来ならば規範となるべく年長者が人間としての内容を伴わないといった現状こそが、若者をどうこう言う以前に解決しなければならない問題なのではないか。
 あの頃、私は自分の周囲を取り巻く大人達を見て、彼らの様にはなるまいと心に決めた。当時、私を取り巻いていた大人達の年齢に近づきつつある今も、その決意は揺らいでいないから、少なくとも私は、彼らよりはマシな大人になれたのではないかと思っている。また、私は「若いのだから、頑張れ」という言葉が嫌いだ。頑張る事、向上心を持つ事の大切さを本当に理解している人間ならば、歳に甘えたりなど決してしないはずだ。だから、私ならばこう言う。「私も頑張るから、君も頑張れ」。