ボランティア活動

 最近、心做しか、ボランティア活動をしている人を駅でよく見かける。何でも、東日本大震災で被災したペットたちを助けるため、募金をしているとの事である。しかし、私は彼らの言動に対し違和感を覚える。彼らが目的とする所は、本当に”可哀想なペットの救済”なのだろうか?ならば、「ご協力を御願いします」などと大声を張り上げる暇があったら、アルバイトでもした方が良いだろう。より多くの額が確実に得られて、しかも社会の役に立つ方法が他にあるにも関わらず、あんな珍妙な行動に出なければならない事の意味が、私にはよく分からない。
 そう言えば、ボランティア活動をしている知人に対しても、私は同様の違和感を覚えた事がある。彼は、貧困に喘いでいる人々を助けたいと、ちょくちょくアフリカに渡っては、NPO団体の活動を手伝っている。そして、時に彼らの窮状を、涙ながらに訴えるのである。だが、少し冷静に考えてみれば、この彼の言動が不合理なものである事は容易に分かる。例えば、私の両親がアフリカの最貧国のどこかで、食うや食わずの生活を送っているとする。この場合、― 私の資産が、彼のそれと同等であると仮定して ―私がまず取る行動は、今ある貯金を全額送金した上で、仕事を増やすという事だろう。また、絶対にしない行動は、”現地に赴く”という事である。私が現地に赴いた所で、出来る事など高が知れてるし、また、そこに行くまでの渡航費を食費に当てれば、両親がどれだけ助かるかを考えれば、現地に赴く気になど到底なれない。逆を言えば、それが出来てしまうというのは、”所詮は他人事”であるからに他ならない。
 人間の言動に著しく不合理な点が確認される場合、多くは本当の理由― 周囲に悟られたくない、その人にとって不都合なもの ―が隠されている。彼らのそれに関して言えば、最も分かりやすいものは承認欲求― 自己顕示欲 ―だが、私にはどうも、それだけでは動機として弱い様に思える。例えば、罹災したペットのための募金で言えば、サークル活動の様なグループで行動する事そのものに対する欲求が強い様に思われるし、NPO活動の彼に関して言えば、悲しい映画を選好する際に見られる欲求が強い様に思われる。もっとも、私は、― 彼らの行動は、十分に社会的意義のある事であるから ―だからどうなどという事を言いたいのではない。ただ、事実を述べているだけである。

 よく、何か問題が起こると、政治家などは”性善説に基づいて云々…”といった事を言いたがるが、現実的な問題に対し有効な処置を施すならば、”性善説”ではなく”事実”に基づいた考察をすべきである。人間(に限らず、生物)とは、そもそも利己的な存在であり、それは好むと好まざるとに関わらず”事実”であるから、それを否定する事に意味はない。寧ろ、事実は事実として積極的に肯定し、それを邪魔しない、もしくは、有効に利用した社会のシステム― これは、上手くやれば、ボランティアよりも遥かに効率の良いものに成り得る ―を構築するべきであろう。耳障りが良いだけの精神論では、何も解決しないのである。