聞いた話

 旅の好きな知人から、久し振りに電話が掛かって来た。彼は、日本に帰って来ては仕事を探し、金が貯まっては成田に向かうといった生活を十年来繰り返しており、パスポートに押されているスタンプの数が、世に出回った履歴書の枚数を上回った事など、ただの一度として無いのではないかと思う。彼は、多数の言語を扱える事が、自身の持つ最大の強味であると考えている。しかし、私が知る限り、彼が使えるのは英語訛りの強いドイツ語と、日本語訛りの強い英語と、四国訛りの強い日本語と、その他諸々の怪しげな言語のみであり、それが頼みの綱だとすると、心許ない事この上ない。それでも、彼が時折、酒の席で語る体験談― どう考えても適切とは思えない手振りを交えながら語る、幾つかの物語 ―は、暫し新鮮で、暫し私の心を打った。ここでは、そんな彼から聞いた話の中の一つを、紹介したいと思う。もっとも、私が聞いたその話は、彼の不確かな記憶領域に侵入したアルコールにより抽出されたものであり、頗る曖昧、且つ断片的なものである。従って、ここに記すに至っては、多分に私の推測なり想像なりが介在している事を、予めご了承頂きたい。
 ある夜、酒の席で興の乗った彼は、旅先での話を始めた。始めは順調だったが、その内に記憶が怪しくなり、話のテンポは次第に悪くなって行った。ところが、ある所に差し掛かると、急に話のテンポが上がり、同時に怒りが込み上げて来ているのが、傍目に見ていても分かった。その時、彼が興奮気味に語ったのは、次の様な話である。

 以前、彼はとある途上国の酪農の村で、ホームステイをしていた事があった。彼が身を寄せていたその家は、村が出来たばかりの頃から代々住みつく名家で、その家の主人は村の長老として、やんごとなき存在感を堅持していた。彼は、昼間は単調な仕事を手伝い、夜は寝床に就くまでその家の人たち― 特に娘達 ―と語り合うといった楽しい日々を送っており、始めの数日間は何事もなく過ぎ去って行った。
 逗留を始めて一週間ほどが経った頃、彼を歓迎するパーティが長老の家で開かれた。長閑な農村のどこにこれだけの人間がいるのかと思われる程、多くの人々が集まり、それらの者達が持ち寄った酒や食料で、彼や長老やその他諸々の取り巻き達は、すっかり良い気分に浸っていた。
 そんな中、ある中年の男が彼にこう問いかけた。

「お前、牛を何頭持ってるんだ?」

 彼は当然、牛など一頭も持ちあわせていないと答えた。すると一瞬、静けさが辺りを包み、緊迫した空気が流れた。どうやら、その場にいる者たちは皆、彼の声に耳を欹てているらしい。

「お前は…持っていないのか…一頭も?」

 男は、明らかに聞いた事を後悔している様子で、それでも、聞いた以上は何か非難がましい事を言わなければならないと考えているらしかった。一方の彼は、そんな事などお構いなしに牛など必要ないと言い放ち、また、牛など飼うと世話が面倒だとも付け加えた。すると、誰かが徐ろに彼の肩を抱き隣に座った。長老だった。

「どういった事情が、あるのかは分からんが…」

 長老が言うには、自分が彼くらいの歳の頃には、既に十頭を超える牛を所有しており、自分ほどではないにしても、彼の歳で牛の一頭も持っていないのは、如何にも不自然であるとの事であった。そこで彼は、この国と向こうとでは事情が違い、日本では必ずしも牛を持つ必要はないのだと説明した。すると長老は、話にならんとばかりに首を横に振り、そんな見え透いた言い訳など聞きたくない。とにかく、今の今まで牛の一頭も持てなかった本当の理由を聞かせてくれと、眼には同情の色を浮かべつつ彼に迫った。
 彼は少し戸惑いつつも、すぐさま気を取り直し、自分の知人には牛を持っている人間など一人もいないのだと話して聞かせた。すると長老は、それが事実である事を念入りに確認した上で、彼の周囲の荒んだ状況を哀れみ、お前にはそんな状況に安堵する事なく、牛の数頭くらいは持てる人間になって欲しいと語った。また一方で、そんな事を言っているから、いつまで経っても牛の一頭も持てないのだと、厳しくたしなめる事も忘れなかった。
 彼は酷く困惑したが、この状況を打開すべく良い方法を思い付かなかった。すると長老は、勝ち誇った顔でそれを彼の未熟さが故と決めつけ、今度は彼に一瞥する事もなく静かに窓際に歩み寄った。月の光は、その遠くを見つめる哲学者の眼差しを薄暗がりに照らしている。長老は語った。お若いの、よく聞くが良い。人は、何だかんだと綺麗事を言う。しかし、世の中は結局、牛であり、人間の価値は、所有する牛の数で決まり、いざという時にものを言うのは、結局牛なのだ…と。
 彼は錯乱し、必死の抵抗を試みたが、村人達はそんな聞き分けのない若造の言う事になど耳を貸さず、長老の漂わせる威厳と風格に改めて心酔し、自分も長老の様な立派な牛持ちになりたいと心から願った。そして、長老の娘たちは、自分たちが一週間もの間懇意にしていた人物が、実は牛の一頭さえも持っていない甲斐性なしだった事に驚き、この期に及んでもまだ、長老の金言を聞き入れようとしないばかりか、牛を持っていない自分を正当化しようとさえし続けている彼を、心の底から軽蔑した。
 その翌々日、彼は長老の家を出た。次に行く先は決まっていなかったが、牛を見なくても済む所でありさえすれば、取り敢えずはどこでも良かった。

 話は以上であるが、私はこの話を聞いた代償として、彼の愚痴に朝まで付き合わなければならなかった。それで終わっては到底やり切れないので、彼の話はこういった形で有効に活用させて頂いている次第である。