偽善

 例えば、あなたが不治の病に罹ってしまった場合を想定してもらいたい。そして、病床に伏せり、今後やりたかった事の大半を放棄せざるを得ない状況に、あなたは置かれているとする。こうなると、人はどんな医師であれ、治る可能性のある医師ならば掛かろうとするのではないかと思う。例え、その医師が強欲でがめつく、意地が悪くて、人を人とも思わない様な人物であっても…である。
 或いは、あなたが会社を経営している場合を想定してもらいたい。そして、その会社が明日にでも倒産しそうな状況にあり、あなたは、その時点で保有する財産の殆ど全てと、その財産を生み出す術の全てを失う危機に直面しているとする。こうなると、人はどんな経営コンサルタントであれ、適切な助言を受ける事が出来るのならば、受けようとするのではないかと思う。例え、その経営コンサルタントが常習性の高い犯罪者であり、ごく短い時間…それも、ガラス越しにしか話す事が出来ない状況に置かれていたとしても…である。
 私だけかも知れないが、ここの所、政治家のスキャンダルがやたらと目に付く。世の多くの者たちは、彼らの何か不道徳な行為が発覚する度に、やたらと騒ぎ立てるが、これらの者たちの根底にあるものは、本当に正義なのだろうか?彼らの言う、倫理や道徳といった大層な大義名分は、政治家という、ある種、恵まれた環境にある者達に、これ以上のオイシイ思いをさせたくないという卑しい考えを隠すべく仮面に過ぎないのではないか?
 こういった”陳腐な正義”は、世の中の至る所で確認する事が出来る。例えば、”医療事故が多いから、医師免許の取得基準を厳しくすべきだ”といった意見に賛同する者は多いが、”交通事故が多いから、運転免許の取得(更新)基準を厳しくすべきだ”といった意見に賛同する者となると、その割合は格段に低くなる。理屈は、全く同じであるにも関わらず…である(※01)。こういった現象の裏にあるのは、世の多くの者はドライバーではあるが医師ではないという、ご都合主義的な考えが潜んでいるのではないか?あるいは、医師という恵まれた地位にある人間の幸福を可能な限り削ぎ落としたいという邪な考えが、その根底部分にありはしないか(※02)?
 政治家としての職権を利用したと言うのであれば話は別であるが、政治家個人の問題に関して言えば、個人としての責任を負えば良い話なのではないかと思う。例えば、某代議士の様に不倫を働いたというのであれば、そこで追求されるべくは夫として、或いは、父親としての責任であり、政治家としての責任ではない。また、交通事故を起こしたと言うのであれば、そこで追求されるべくはドライバーとしての責任であり、政治家としての責任ではない。更に言えば、私は、政治家が前科百犯の凶悪犯であったとしても、別に構わないと思っている。その罪に対する責任は、当然に負わなければならないが、それは、世を善導する能力や、仕事に対する情熱に欠けている事を、必ずしも意味する訳ではない。獄中からテレビ電話で国会に参加したり、政策論争をしたり、あるいは、陳情を聞いたりしても、別に良いではないか。
 もし、政治を良くし、国を良くする事を本気で考えている人がいたとするならば、その人は純粋に政治家としての意見に耳を傾け、誰が有望なのかを見極めようとするだろう。それは、本気で病気を治したいと思っている人が、純粋に医師としての能力を求めたり、あるいは、本気で自分の会社を立て直したいと思っている人が、純粋に経営コンサルタントとしての能力を求めたりする様に…である。その人の主張になど耳を傾けた事のない人間が、スキャンダルを起こしたと見るや馬鹿騒ぎし、その名声が失墜した姿を見ては面白がる。世の中が良くなる事よりも、自身の陰湿な欲望が満たされる事の方を望む様な人間に、政治を非難したり、世を憂いたりする資格など、果たしてあるのだろうか?

 世の進歩を妨げる本当の要因は、政治家ではなく、陳腐な正義を振り翳す無責任な有権者の側にある。この国の民たちにも、そろそろ”本物の正義”というものを、悟ってもらいたいものである。

※01:こう言うと、”医師とドライバーとは、社会的責任が違う”と言う者がいるが、医師の社会的責任の根拠が、人命や人の安全を背負っている事にあるならば、殺傷能力の高い道具である自動車を扱う者にも、当然に重い社会的責任が負わされるべきである。
※02:ゲーテは、”倫理の大半は、悪意と嫉妬から出来ている”という言葉を残している。当時も今も、倫理的な意味での稚拙さという点では、大差ないものと思われる。