モハメド・アリ

 モハメド・アリというボクサーは、どんな体勢からでも強いパンチが打て、どんな体勢にあっても相手のパンチをかわす事が出来る。おそらく、全身のバネが強く、また、バランスの取れた理想的な体型をしているのだろう。彼は、よくマイク・タイソンと比較されるが、タイソンは、型を決めて戦うタイプのボクサーであるから、得意な相手と不得意な相手というのがハッキリして来るし、戦う相手としても対策を立てやすい。もっとも、タイソンは20年に一人のパワーと、20年に一人のスピードと、20年に一人のディフェンスの上手さを一人の人間の中に兼ね備えた、規格外の逸材であるから、長きに渡り王座を守り続ける事が出来た。対して、アリは、天性のセンスと頭の良さで、長らく王座を守り続けた。どちらも、偉大なチャンピオンである事に変わりはない。
 一方でアリには、政治的な発言も目立った。彼が、そういった発言をするきっかけとなった出来事― 徴兵拒否 ―は余りにも有名だが、これは、ベトナム戦争を白人のための戦争と位置付け、その白人を人種差別の象徴として位置づけたためだった。彼は、大統領自由勲章を贈られる際、冗談めかしてファイティングポーズを取るブッシュ大統領(ジョージ・ブッシュ)に対し、ニコリともせず、「お前、イカれてるのか?」というゼスチャー(※01)を取った。あの時のブッシュの顔- 赤らめた顔を引き攣らせながらも、作り笑いを浮かべる -は、実に印象的だったが、彼は恐らく、白人と戦い、偏見と戦い、そして何より、黒い肌を持って生まれた自身の運命と戦い続けていたのだろう。まさしく、信念の人である。
 世の多くの人間に見られる矛盾の一つは、新しい(個人的ではなく、社会的)習慣を始める時は、それが合理的であるというだけでは十分な理由であるとはみなさないにも関わらず、一度定着した習慣をやめさせる時は、それが不合理であるというだけでは十分な理由であるとはみなさない点である。この力学的ならぬ感覚的慣性(現状維持の力)とでも言うべきものは、以下の理由により生じている。
 人間が何かを判断する際の基軸となるのは、理性(論理)と感情の2つであるが、知性の乏しい人間が理性的な判断を理解する事は、それ― 合理的である事、即ち、論理的に正しい事 ―が慎重、かつ丁寧に示されたとしても、大変な困難を伴うものである。つまり、非知的な人間は物事を判断する基軸の一つを殆どか、あるいは全く持たず、ゆえに”感情”が主たる判断基軸となるが、この”感情”は基本的に既知のものに靡く性質がある。非知的な人間が馴染みのあるもの- 古い体質 -固執し、あれこれと不合理な理由をつけては新しい考え方や習慣を拒もうとするのは、まさしくこの性質によるものであり、こういった人間が世の大半を占める事が、社会の進歩を閉ざす最大の要因となっている。
 では、社会を変えるには― 即ち、世の多くの人間に新しい習慣を認めさせるには ―どうすれば良いかとなると、これは自ずから答えが決まって来る。世の大半の人間は、”感情”で動く訳だから、その”感情”を変える― 新しい習慣が今までよりも良い結果をもたらす事を執拗に示し続け、その習慣を馴染み深いものにする ―以外に方法はない。だが、その”馴染み”を作るには膨大な時間がかかるし、当然の事ながら、それに伴う労力も必要となる。更に言えば、古い体質に固執する者により繰り返される愚かしさ― 陰湿で執拗な妨害 ―に耐え抜く精神力も必要になるだろう。では、その負荷を跳ね返す程のモチベーションを生み出すものとは、一体何であろうか?
 こう聞くと、大半の人間はポジティブなものを答えたがる。”公共心”だの”人類愛”だの、”博愛の精神”だのといった類の事を…である。しかし、考えてみて欲しい。こういった感情に、持続力はあるだろうか?例えば、あなたが善意に満ち足りた話を聞き、感動に包まれた後、理想的な人物であり続ける事が出来る時間は、果たしてどの位であろうか?統計を取った訳ではないので、正確な事は言えないが、おそらく誰であれ、30分が限度なのではないかと思う。つまり、ポジティブな感情に持続力はなく、拠ってそれは社会に変革をもたらす原動力とは成り得ない。
 類い稀なる人物の中に存在するベクトル― 世間的に認知されていないが、建設的な向きを持つ ―があらゆる感情の内積により増幅されると、その人は時として世の中を変えるか、もしくは、そうする上で重要な役割を担う。そして、その役割は持続的に行われなければならず、そのためにはその原動力たる感情に持続性がなければならない。持続力のある感情とは、”恨み”であり”怒り”であり、その他諸々のネガティブな感情である。世の中は決して綺麗事では動かないが、人は他者に対しては綺麗なものを望む。この”綺麗でない”感情に多少の脚色を施したものこそが、”反骨精神”なるものの正体であろう。しかし、脚色はしょせん脚色であり、事実ではない。世に見られる英雄的行為は、執念深さが成せる業であり、それは本当は泥臭いものであるが、そういった泥臭いものの中に認められる美質こそが、脚色のない本物の美質であろう。アリが多くの人々を感動させるものの正体は、この”本物の美質”に他ならない。

 アトランタ五輪の開会式を、私は当時TVで見ていた。周到に秘密にされていた最終走者が幕の向こうに現れた時、― これは、世界中が驚いたのではないかと思う ―私は絶句した。並居る兵達をマットに沈め続けて来た手を、小刻みに震わせている(※02)男…あの、モハメド・アリがいる。人種を超えた祭典の開幕を飾る者として、これ以上に相応しい人間がいるだろうか?彼は、嘗て奴隷と蔑まれた者の中に、尊敬に値する人間がいたであろう事を証明した。巨星は墜ちた。だが、その決して消える事のない記憶は、人類共有の財産である。アリよ、安らかに眠れ。

※01:自分の頭の上で人差し指を回す。日本に馴染みのあるもので言えば、”クルクルパー”の手を開く前のゼスチャーに近い。
※02:パーキンソン病の症状である。