完璧主義

 13歳の頃、私は一枚の絵を書いた。鰐の絵であったが、私の乏しい画才が成した業にしては、上々の出来であった。ところが、”私にしては上々”の出来であるこの絵を改めて見た時、私にはそれが全くの駄作に思えた。私が求めているのは理想型としての鰐であり、その鰐が特筆すべき一頭であるとは思えなかった…というのがその理由である。そこで私は、理想型としての鰐を描く為、あらゆる鰐を調べ始めた。ところが、どの鰐も見ればみる程、理想型とは程遠い。その内に私は、自分が求めているものは、創造する事によってしか存在し得ない事に気が付いた。ここで再び、問題が発生した。理想的な鰐とは何なのかが、私の中で明確でない。これに解を与える為には、鰐に対する解剖学的な知識が、最低限必要だった。当時の私には、それに対する十分な知識を得る術が分からず、止む無くその野望を断念した。
 それから暫くして、私はレオナルド・ダ・ヴィンチに関する伝記的書物に出会った。彼は絵画や彫刻の制作に異常な時間を費やし、対象となるもの…馬や人体の解剖に熱中した。それらのエピソードを読んだ時、私はふと思った。彼はもしかすると、私と同じ事を考えていたのではないだろうか?彼は理想的な馬や人物を描く為に、解剖学的な知識を必要とし、それを基に理想的なそれを構築していたか、或いはしようとしていたのではないか?少なくとも彼の作業の遅さと、絵画や彫刻と解剖が対になっているが如く思える点については、それで説明がつく。となると彼の科学者的な側面の一部は、科学そのものの為のそれではなく、絵画の為のそれだという事になる。

 科学史家の村上陽一郎氏は、ニュートンは科学者ではないと、その著書の中で述べている。ニュートンは世界を神の創造物として捉えており、彼が研究対象としていたのは純粋に自然ではなく、飽くまで神の意志であるからというのが、その理由であり、無論の事この主張は、科学者の定義として、少なくともその世界観が科学的でなければならないという前提の上に成り立っている。これが定義として妥当なものか否かは、甚だ疑問であるが、もし村上氏が、世間的にレオナルドがそれと目されている職業の全てを定義したとするならば、レオナルドはその何れにも当てはまらないのではないかと思う。彼は完璧を求め過ぎる余り、多くの芸術家の様ではなく、多くの科学者の様でもなかった。

 私の完璧主義と、彼の完璧主義は、果たして同じものなのだろうか?この疑問を持ち始めた頃から一貫して、私には興味深い謎である。