震災の報道について思う

 福岡県西方沖地震の時、私は偶然にも、当時、福岡県に住んでいた母の許を訪れていた。もっとも、私に震災時の記憶はない。ただ、少し昼寝をして、起きてみたら部屋の中が散乱していた。床に落ちていたテレビを元の位置に戻した際、誤って電源のスイッチを押していなければ、その散乱の理由が何であったのかを悟るのに、もう少し時間を要しただろう。
 東日本大震災の時、私は以前に勤めていたブラック企業(”昔、勤めていた会社”参照)に内容証明郵便― 不当な人事が恢復されるまで、出社を拒否する旨の通知 ―を送るため、車で郵便局へ向かう途中だった。前を走っていた車がハザードランプを点灯させ、路肩に寄る。私は、その様子を何気なく眺めていたが、反対車線の側にある歩道に立っている電信柱を見た時、自分の運転している車の不自然な揺れの原因が、昨年度末に行われていた粗雑な道路工事のせいではない事に気が付いた。
 先日、インターネットで、何やら地震騒動が起きている事を知った。どうやら、地震氏は、私を追いかける事を諦め、代わりに、私の故郷(大分県)を襲ったらしい。もっとも、被害は熊本の方が格段に大きかったらしく、熊本城が壊滅的な被害を受けたのは、戴けなかった。修復が可能なのか、立て直しが必要なのか、現段階では分からない。しかし、建て直さなければならないにしても、大阪城みたく天守閣に売店を置く様な無粋な真似だけは、して欲しくないものである。
 連日、震災に関連した番組が組まれる。そこでは、大した意見も持ち合わせていないのに、水を向けられたコメンテーターなる生き物が、どこかで聞いた事のある、耳障りの良い声を真似て鳴いている。彼らが、次の餌にありつきたいならば、「どうでも良い」「知った事ではない」などと、決して言ってはならない。つまり、日本という社会に於いて、最も許されざる行為― 本音と建前を間違える ―に及ぶ事だけは、絶対に避けなければならない。
 今回の震災では、耐震基準を満たした建物が数多く倒壊したという。それに対し、コメンテーターたちは、申し合わせた様に、”耐震基準の見直し云々…”といった意見を述べる。彼らは、恐らく、こういった事が起こる度に、同じ趣旨の発言を繰り返すのだろう。となると、畢竟、彼らの主張は、およそ地球上で想定し得る、どんな大地震にも耐え得るレベルの耐震基準を設けなければならないという事になる。しかし、そんなレベルまで耐震基準を引き上げてしまえば、途方もないコストをかける事なしに、建造物を建てる事は難しくなる。一部の富豪のみが家を所有し、それに次ぐレベルの富裕層が借家に住み、それ以外は全てホームレス…そんな社会を、彼らは望んでいるのだろうか?まあ、確かにホームレスなら、家が倒壊する恐れもあるまい。もっとも、私は決して、その様な事態を望みはしない。
 東日本大震災の時、コメンテーターの多くは、津波対策が不十分であったと指摘した。しかし、数百年に一度という規模の災害に備える事など、現実問題として可能なのだろうか?彼らの多くは、津波は予想できた事であり、対策を立てなかったのは行政の怠慢だと主張する。ならば、火山の噴火なども予想できる事であるから、やはり対策を立てねばならないだろう。日本中の、ありとあらゆる活火山の周囲を、山よりも高いコンクリートの塀で覆う。いや、活火山というのは、過去一万年に渡る記録に― しかも、現時点に於いては、贔屓目に見ても確かとは言えない記録に ―基づいて決めているに過ぎないから、休火山が噴火しないなどという保証は何処にもない。日本中の山という山を、コンクリートで覆うべきだ。しかし、考えてみれば、隕石が落下して来るという事も、十分に想定し得る。となると、日本の国土全域を覆うコンクリートの屋根を作らなければならない。隕石は、ちょっとした大きさのものでも、広島原発を超える破壊力を持つ。ならば、10mを超える厚さの屋根を作れば、それで事足りるだろうか?
 私は、基本的に政治家は嫌いだが、それらを叩いているというだけの理由で、自分が正しい側にいるかの如く思い込んでいる馬鹿は、尚の事、嫌いである。無論の事、正論ならば良い。しかし、政治家に対する無責任な批判は、彼らの情熱に水を差す事にしかならない。したり顔をして、正義を振り翳してはいるが、実際は毒を垂れ流している。有事の際に、どこからともなく現れ、適当な事をほざいては、小銭を稼いで帰って行く。私には、彼らコメンテーターたちが、獲物の死を待ち群がる、禿鷹の群れに見える。