”手段”と”目的”

 私は毎年、夏になると富士山に登っている。朝方から登り始め、昼過ぎには山頂に到着する。山頂では火山口を一周し(お鉢巡り)、その足で下山する。時間にして、およそ半日の小旅行である。
 私は、登山が好きだ。いや、登山という以前に、冒険が好きだ。何より、あの孤独感が良い。そして、孤独感の中でしか味わう事の出来ない達成感が良い。考えてみれば、私はごく僅かな一時期を除けば、ずっと自分の実力のみを頼って生きて来た。この、人によっては信じ難い位、不安定な立場を好み、また楽しめる私は、根っからの冒険家であり、自由人なのだろう。そして今後も、同じ様な人生を歩み続けるのだろう。
 冒険をする者は普通、何か目指すものがある。例えば、植村直己は嘗て、南極大陸横断を目指した。しかし、あの時の植村直己の目的が南極大陸横断だったのかと言えば、それは違う。そもそも、もしそれが目的であるならば、スノーモービルを使えば良いのだし、もっと手軽に済ませたければ、飛行機を使えば良いのである。彼が乗ったのが、スノーモービルや飛行機ではなく犬橇だったのは、彼の目的が南極大陸横断ではなく、冒険する事そのものにあったからだ。つまり、彼にとって南極大陸横断とは、冒険という目的のための目的、即ち、”手段”だった訳である。
 私は、野球をちょくちょく見るが、プロ野球とは、そのプレーを見せる事により対価を得ている、いわゆる”ショー・ビジネス”の一種である。選手は、一つ一つの試合に勝つ事を目標とし、ペナントレースを制する事を目標としているが、しかし、それが”目的”なのかと言われれば、それは違う。プロ野球の目的とは、そのプレーを見せる(⇔対価を得る)事である。そして、試合に勝つ事やペナントレースを制する事は、その目的を達成するための舞台装置の一つであり、手段である。
 プロ野球の監督の中には、実に細かい采配を振るう人達がいる。ざっと思い浮かぶ所を言えば、王貞治・森祇晶・落合博満といった辺りだが、私の目には、彼らが勝つ事を最優先にしている様に映る。安全策に、走り過ぎているのである。しかし、これは見る側からすれば面白くない。私は、そういった辺りに違和感を覚える。プロ野球という”ショー・ビジネス”が、見せる(魅せる)事を犠牲にし勝ちにこだわるのは、本末転倒ではないか?南極大陸を飛行機やスノーモービルで横断するのと同じで、手段と目的が逆転してはいないか?…そう思えるのである。

 ”面白いか否か”は、しょせんは主観の問題であるから、”勝ちにこだわり抜く野球こそが面白い”という意見があったとしても、私はそれを否定するつもりはない。しかしながら、そういった人は恐らく少数派であるから、大衆的な娯楽が主たる対象とするならば、そこには商業的な矛盾が生じている。日本のプロ野球は今、メジャーリーグの2軍化しつつある。今後、戦わなければならない相手は、海の向こうの個性派集団であるという現実に向き合わなければならない時期が、来ている様に思う。