富士登山

 去る07月03日、私は、富士山に登って来た。今回は、その時の事を書こうと思う。もっとも、富士登山について書かれたものは、比較的よくあるので、ただ行って登って下りるまでを漫然と書いたのでは面白くない。従って、ここでは、今の時期特有の山頂でのレポートをメインに、書き進めて行きたいと思う。ちなみに、富士山には全部で4つのルートがあるが、富士吉田ルート以外の全てのルートは、07月10日より解禁(山開き)になり、また、富士スバルライン(富士吉田ルートに続く道路)に於いても、07月09日まではマイカー規制(公共の交通機関以外で、乗り入れる事ができない)が敷かれていない。つまり、07月01日~07月09日の富士登山は、他の登山時期と比べ、多少趣を異とするものであり、”今の時期特有の”というのは、そういう意味である。

 登山の前日、私は、自分に2日間ほどのまとまった時間がある事に気が付いた。もっとも、暇とは言っても、時間的拘束のある仕事が入っていないというだけの話で、その気にさえなれば、やるべき事は幾らでもある。しかし、どうも仕事気分ではない。では、どうしたものかとあれこれ思案している内に、ふと思い立った。”よし、富士山に登ろう”…私は通常、富士山には盆の時期に登る。従って、この時期に登るのは、今回が初めてである。
 富士山に登るとなると、大概の人は、ある程度の覚悟を必要とするらしい。そう言えば、私が初めて富士山に登った時も、「山を舐めるな」だの「きちんとした装備をし、計画性を持って」だのといった類の事を、あれこれと言われた。しかしながら、これらは何れも一般論であるから、私の様に自分が特別な人間であるという自覚がある上に、自分で確かめたものでなければ信用しない人間には、全く通用しない。ちなみに、私の初めての富士登山は、上はTシャツ一枚、下は綿パン、靴はドクターシューズ(※01)といった出で立ちに、仕事で使っているバッグの中身を抜き、代わりににセーターとダウンジャケットを一枚ずつ入れたものを持って敢行された。もっとも、二回目からは、これに1L入りのペットボトルが2本加わり、今回はサンダルがスポーツシューズに替わった。自分で確かめてみて、必要であると判断したからだ。
 家を車で出発したのは、03:00を少し回った位だった。富士山五合目に着いたのが、06:00頃だから、およそ三時間、車を運転して行った事になる。ところで、行く度に思う事だが、富士山の登山客は、とにかく外国人が多い。もっとも、その比率には多少の変動があり、例えば、3年前、富士山が世界文化遺産に登録された年は、アジア系が異常に多かった。しかし、その翌年からはアジア系の比率が一気に下がり、代わりに北米・北欧・オセアニア系の比率が高くなった。また、今回は今までにない位、北米・北欧・オセアニア系の比率が高かったが、この時期の登山客となると、(国内居住者ではなく)外国人旅行客の比率が高くなるのは明らかであるから、今までと単純比較する訳には行くまい。もっとも、北米・北欧・オセアニア系が、外国人旅行客の15%程度(※02)である事を考えると、やはり彼等の比率の高さは、注目に値する。”旅行”というものに対する捉え方・考え方が、”爆買い”に勤しむ某国の人間とは、決定的に異なるのだろう。
 当日は、お世辞にも登山日和とは言えなかった。とにかく、風が強い。比較的大き目の砂塵が、雨の様に登山客の上に降り注いで来る。近くを通る登山客が、下山して来た明らかに登山慣れしていると思わしき人物に、山頂付近の気候を聞いていた。その人物が言うには、どうやら山頂には、立っているのも難しい程の凄まじい風が吹いているらしい。まあ、車の中から笠雲(※03)が見えた時点で、ある程度の覚悟はしていた。そう言えば、一昨年の08月11日に登った時も笠雲が出ていて(※04)、酷い強風に晒された。あの時よりも、強いという事はあるまい…私は、高を括っていた。
 九合目を過ぎた辺りから、風は愈々強くなった。山頂では、台風慣れしている九州人の私ですら経験した事のない様な強風が、ひっきりなしに吹き荒れている。そんな状況だから、山頂は人がまばらだったし、また漸く登頂に成功した人達も、直ぐに山を降りて行った。まあ、それはそうだろう。そもそも、人を受け入れる体勢そのものが、出来上がっていない。

 冬場の雪に備えたものと思われる支え棒が、まだかかっている。つまり、この山小屋は未だ、営業を開始していないという事である。ちなみに、他の所を見てみると…

 ここには通常、重機が置いてあるのだが…

 ここには通常、自動販売機が設置されている。缶が400円、500ml入りのペットボトルが500円。スイスでも、この値段は有り得ない(※05)が、富士山では七合目あたりから、この相場である。
 山小屋の付近を一通り見て回った後、私は次の行動へと移った。日本で一番(標高の)たかい場所…剣ヶ峰まで行かねばならぬ。ところが、富士吉田ルートの山頂は、すり鉢状になった富士山頂の北東に位置し、剣ヶ峰は南西に位置する。つまり、現在地から見た剣ヶ峰は、一周3kmの火口の反対側なのである。
 状況から考えると、多少の危険を伴うかも知れない。しかし、ここまで来て行かない手はない。私は決心し、剣ヶ峰に向けて歩き出す…と、何やら目の前に嫌な物が…。

 昨年はなかった上下2本のトラロープが、なぜか張られている。”入るな”という事か?この時期はまだ危険だから、入るなと?ウム…ここは一つ、冷静になって考えてみよう。
 このロープが、”入るな”という警告を表しているというのは、ある意味で私の思い込みだ。確かに、そういう解釈も出来なくはないが、もしかしたら上のロープは、富士山頂で急に走り高跳びがしたくなった登山客が張ったものかも知れないし、下のロープは、カリブ海の島に住む原住民か何かがやって来て、祖国とは似ても似つかぬ環境を前に望郷の念に駆られ、リンボーダンスを踊るために張ったものかも知れない。
 リンボーダンスならば、いざ知らず、走り高跳びならば、何度かやった事がある。私は、そこそこ足は早い方だし、跳躍力もある方だ。勢いをつけて…トウッ!!

 おおっ、飛べた。さあ、先を急ごう。
 しかし、風は強いし、視界も悪い。火口を覗き込むと、吸い込まれそうだ。

 ちなみに、富士山頂は大変さむい為、火口内部には雪が残っている。

 もう一つ。火口内部からは、水が溢れだすらしく、その場所には石碑の様なものが立っている。

 読みづらいが、”金明水”と書かれてあるらしい。
 さあ、少し寄り道が過ぎた。剣ヶ峰へ急ごう。ところで、剣ヶ峰へと続く道は、こんな感じである。


 強風に煽られ、山頂から転げ落ちそうになる。呼吸すら、儘ならない。私は、重心を低くし、顔を手で覆いながら進んだ。ところで、ここまで来て改めて気が付いたのだが、この強風は、南西の方角から北東の方角へ、即ち、剣ヶ峰から富士吉田ルートの山頂方向に向かって吹いている。そう言えば、一昨年も風の向きは同じだったな。日本海側の湿った空気が、富士山を駆け上がり、その空気に含まれる水蒸気が、気温の降下と共に細かい水滴(雲)になる。それが、”風が強いと、山頂付近に笠雲が出来る”メカニズムなのだろう。
 自分がいる場所が、よく分からなくなったので、スマートフォンを取り出した…が、何と、電波が来ていない(※06)上に、バッテリー残量も少ない。私は、しばらく考えた。そして、考え抜いた末に出した結論は、考えていても仕方がないという事だった。取り敢えずは、目的地(と思わしき方向)に向かってみる。すると、どこからともなく”ゴォォォォォォ…ゴォォォォォォ…”という凄まじい音が…。

 おやっ?あれはもしや、剣ヶ峰ではないか?あのダース・ベイダーのいびきの様な音は、あそこから聞こえて来ているのか?
 暫くすると、見慣れた看板が見えて来た。

 そうそう、これこれ。これが、剣ヶ峰へと向かう入り口なんだな。ちなみに、剣ヶ峰とは、こんな所。



 赤い印の付いた岩が、最も高い地点らしい。私は、暫くの間、ここで過ごした。
 興奮していたので気が付かなかったが、いつの間にやら、私は、尋常でない位に体が冷え切っていた。そこで、そろそろ帰ろうかな…と思っていると、先程のダース・ベイダーのいびきが、まだ続いている事に気が付いた。その方向に目を向けると…


 ”立入禁止”…か。普通に考えれば、”入ってはいけない”という意味になるが…私は、冷静になって考えてみた。
 書いている文字は、確かに”立入禁止”である。しかし、これがもし”入ってはいけない”という意味であるなら、”立ち入り禁止”と送り仮名が入るのが自然だ。となると…なるほど。あの”立入”は”タテイリ”という苗字で、”禁止”は名前だ。読みは、いまいちよく分からんが、たぶん最近流行のキラキラネームか何かなのだろう。しかし、他にも何か書いている様に見えるが…いやいや、あれはたぶん、単なる汚れだ。そうだ、そうに違いない。人間は極限状態に置かれると、よく幻を見るものだ。あのマッチ売りの少女だって、寒い夜に燃えさかるストーブだの、とっくの昔に死んだ婆さんだのといった、麻薬の禁断症状としか思えない様な幻を見たではないか。汚れが文字に見えたとて、何の不思議があろう。つまり、この状況は、立入さんが私物である鉄柵の所有権を主張しているに過ぎない。ならば、ちょっと上を拝借して…ショワッチ!!


 別に、どうという事はなかった。
 帰り際、一瞬だけ雲が晴れ渡り、下界を一望する事が出来た。

 今回の富士登山も、良い思い出になるだろう。

※01:革製のサンダルの様なものだと考えて頂ければ良い。
※02:JNTO(日本政府観光局)調べ。2015年度。
※03:山頂付近を覆うレンズ雲の一種。これがかかっている時は山頂付近の風は強く、また麓では高い確率で雨が降ると言われる。
※04:この日は台風直後であるにも関わらず笠雲が出ており(台風の直後に笠雲が出るのは、珍しい現象である)、翌日のニュースになっていた。
※05:スイスは、世界一物価の高い国として知られている。尚、各国の物価を知る指標として、よくビッグマック指数が用いられるが、日本では一個370円のビッグマックが、スイスだとおよそ900円になる(2015年)。
※06:意外に思われる方もいるかも知れないが、富士山は基本的に電波の入りは良い(但し、PHSは別)。