野口英世記念館にて

 盆の休み期間中、私は野口英世の故郷、福島県耶麻郡猪苗代町を訪れた。東北自動車道を東京方面から北上し、栃木県との県境を超え一時間ばかり走ると、猪苗代湖が見えて来る。湖畔には畑が広がり、その向こうでは何処で尽きるとも知れぬ猪苗代湖が、もやを携えて広がっている。冬には白鳥が飛来すると言うから、その優雅さは一層際立つだろう。後で知った事だが、猪苗代湖は国内では四番目、淡水湖としては三番目に大きな湖である。巨大であるという事は、それだけで人の感性を刺激する。富士山が神秘的なのは、美しいと同時に巨大だからである。同じ風情が、猪苗代湖にはある。
 猪苗代湖を時折ながめつつ、ほぼ直線に伸びる道路をひたすらに進んで行く。湖畔の公園は西に向かって伸びており、そこに佇む椅子の上で老人が一人、寝そべっているのが見える。時折看板が見えては、私と猪苗代湖との間を通り、そのまま後方へと抜けて行く。やがて、その中でも一際大きなものが目に飛び込んできた。”野口英世記念館”…間違いない。あれが、今回の小旅行の目的地である。
 記念館の入り口を抜けると、幾らも歩かない内に屋外に出る。そこを更に進んで行き、かつて野口家に恵みをもたらしていた水路の辺りまで来ると、今では殆ど見かけなくなった藁葺き小屋の全貌がほぼ見渡たせる。
 この小屋の間取りは、座敷と土間に分かれており、座敷は全部で三つある。その内、最も小さな部屋は二畳程の納戸であり、英世はここで生まれている。残りの二つは居間と客間で、それぞれ十畳と六畳といった所であるが、居間の方は養蚕の為の棚がおよそ二畳程のスペースを占めており、有名な囲炉裏が半畳程のスペースを占めているから、親子五人が暮らすのに十分な広さではなかったろう。
 客間の柱には、彫刻刀で刻まれた文字がある。”志を得ざらば、再び此の地を踏まず”…医師開業試験に臨む英世が、その決意を表したものであるが、座敷には上がれないから、直接確認する事は出来ない。その代わりに、その型を取り樹脂を流し込んだ様なものが、表の柱に据え付けられている。あの当時の青少年の言葉としては、ありふれた類のものではあったろう。しかし、その言葉は英世の偽らざる心中でもあった筈である。
 英世は、この家に生まれ、会津若松にある會陽医院で薬局生になるまでの17年間をここで過ごした。

 英世は貧しい地方の、とりわけ貧しい家に生まれた。当時の日本社会は、金もコネも学歴も持たぬ農民の倅に、輝かしい未来へと続く切符を与えようとはしなかった。今よりも遥かにアメリカが遠かった時代、受け入れ先の無いアメリカ行きの船に、僅かな金と片道切符を持って乗り込んだ。研究室の仕事を貰おうと、かつて通訳を買って出た事のあるシモン・フレキスナーの下に何度も足を運び、そして何度も断られた。その強引さに負けたフレキスナーから渋々もらった仕事は、蛇毒を採取する、当時は黒人しかやらない仕事だった。
 英世が医師になったのは、火傷を負った左手が治った事に感動したからだと言う者がいる。アメリカ・ニューヨークにあるウッドローン墓地、彼の墓石には、”He lived and died for humanity.(彼は人類の為に生き、人類の為に死んだ)” と記されている。私は、違うと思う。彼は虐げられ続けた少年時代、そして、学歴が無いがために不当に扱われ続けた青年の日々を、決して忘れなかった。だからこそ、生涯に渡り栄光を求め続け、その栄光に入りかけた亀裂を修復する為の危険を顧みなかった。彼の地で息を引き取るその瞬間まで、彼は遠く祖国へと降り注ぐ光を放ち続けたいと願い、また実際に放ち続けた。その光は、光源を失った今も尚、我々の上に降り注いでいる。しかし、英世の業績の大半は現在では残されていない。そのほとんどが、目まぐるしいまでの医学の進歩の波に押され否定されたからだ。

 私が野口英世に興味を持ったのは、あるエピソードを知ったからである。
 彼がアフリカのアクラで没する少し前の事、世界的細菌学者たる彼の伝記が日本で出版された。日露戦争での勝利に沸き、国威発揚の気運がそれまでになく高まっていた頃の話であるから、そこに書かれている野口英世像は多分に脚色されていた。その自身の伝記を読んだ時に、彼が取った行動が印象深い。彼は激怒し、こう言った。「ここに書かれているのは、人間ではない」。
 その伝記の中にある英世は、当時の社会通念上、非常に模範的な人物として書かれている。借金を踏み倒して廻った事や、結婚詐欺まがいなやり方で渡航費用を捻出した事、遊郭に入り浸っていた事など、不都合なエピソードについては、その一切が伏せられている。では何故、彼は怒りを覚えたのだろうか?思うに、彼には彼なりの自負心があったのではないか。決して模範的な人生ではなかったが、誰よりも必死で生き抜いて来たのだという強烈な思いが、彼の中では常に蠢いていたのではないか。書かれてある事が事実でない以上、それは彼の人生を否定している事に他ならない。それが彼には、許せなかったのではないのだろうか。
 こういった自負心というものは、生半可な人間が持ち得るものではない。自分の信念に従い、妥協せず生きて来た者だからこそ持ち得るものである。だから私はこのエピソードを聞いた時、野口英世に興味を抱いた。こういう自負心を持った男の生き様を、是非とも知りたい…そう考えたのである。

 野口英世については、賛否両論ある。たかだか一世紀前の話であるから、それらは肯定的なものも否定的なものも含め、そう事実とかけ離れている訳ではない。しかし、私の思いはそれを超えた所にある。
 ”人間ダイナモ”と呼ばれた男。”日本人は二日に一回しか眠らない”と、アメリカ人の同僚たちに本気で信じさせた男。”出世する事が、敵討ちだ”…この思いを胸に、彼は何度、絶望と希望の間を彷徨っただろうか?眠れぬ夜に、何度枕を濡らしただろうか?斜陽の向こうの帰れぬ祖国を、どんな思いで見つめていたのだろうか?どんな理由があれ、そんな一途な男の生き様を、私は否定する気になれないのである。

 野口英世の生家の庭には、遺髪を納めた石碑が建てられている。その石碑を暫く見つめ、私はこうつぶやいた。「お疲れ様でした。あなたの本当の偉大さを知る者が、今日ここに来た事を忘れないで下さい。またいつか、参ります」。
 後ろ髪を引かれつつ、私は記念館を後にした。右手に臨む猪苗代湖は、ずっと静かなままである。公園の老人は煙草をふかし、遠く対岸を見つめていた。