信仰の本質

 つい、この前の話であるが、知人が面白い事を言っていた。その知人は、何か強烈な願望がある時は、決め事をするのだと言う。例えば、”次に見る車のナンバープレートに3が含まれていたら、願いが叶う”だとか、”ドアを開けて、最初に見た人が男性だったら願いが叶う”だとかいった調子である。その話を聞いた時、ふと昔、有線で耳にした曲を思い出した。いや、正確には思い出せない。だが、あの高い声は、たぶん槇原敬之だと思う。検索してみると、確かに出て来た。”雷が鳴る前に”の中の一節である。

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例えば紙くずを投げ入れたり 横断歩道を渡るときに
何か一つルールを決めて 願いをかけたりしてる
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 不可解な歌詞なので、ここの下りは鮮明に覚えていた。これは恐らく、知人が言っているそれと同じ事なのだろう。そんな事を考えている内にふと、昔の事を思い出した。

 16,7歳の頃、とあるカルト教団から、信者になれと熱心に誘われた事がある。偏見は無いか?…と聞かれたので、何を以て偏見と言っているのかは分からないが、それがあなた達に対する負の思い込みという意味ではなく、あなた達の教義に懐疑的な考えの一切を指しているならば、無いという保証はし兼ねると答えた。納得いけば入信するかと聞くので、私が納得するのは、十分な根拠と論理性のあるものだけですよと答えた。ならば責任者に会ってくれと言う。恐らくは、私の言っている意味が、余りよく分かっていなかったのだろうと思う。
 それから数日の後に、私はその責任者の部屋に通された。彼は熱心に教義を説き続けていたが、途中私は、あなたの言っている事に根拠はあるのかと問うた。すると彼は、ちょっとムッとした感じで「ある」と答えた。「ならば、それを言って下さい」と私。すると彼は、さっきまでと同じ様な事を、再び語り始めた。私は再度、切り出した。

「あなたの信仰心が厚いのは、よく分かりました。ですが、私が聞いているのは、あなたが何を固く信じ込んでいるのかではなく、その根拠の方です。つまり私は、あなたの言っている事が信ずるに足るものなのか、或いは単なる妄想に過ぎないのかを、はっきりさせようとしている訳です」

 すると彼は真っ赤な顔をして、しかし一方では冷静さを装いながら話を続けた。しかしまた、同じ類の話である。仕方がないので、私は三度切り出した。

「のらりくらりと脈絡のない話を続けて、立証責任を果たしたが如く取り繕わなくて良いから、根拠を聞かせて下さい。そして、根拠が無いなら無いと認めてください」

 彼は真っ赤な顔を更に赤くして、無礼だと罵った。私は言った。

「人は通常、根拠のはっきりしないものを、簡単に信じたりはしませんよね?権威付けでもされていれば、まあ大抵の人は信じてしまいますが、そうでもなければ、普通はそうです。程度の差はありますけどね。しかし、あなたの場合、宗教に限っては根拠と呼ぶに足るものが何一つ無いのに、無批判に信じ込んでいる。進化論の様な教義に反するものに対しては、禄に知りもしないし、また知ろうともしないのに批判的であり、徹底して根拠を求めるあなたが…です。これには、何らかの心理的バイアスがかかっていると見做すのが自然でしょう?つまりはね、現実逃避ですよ。現実に対する逃避願望が、あなたを信仰に追い込んでいる。あなたは人間的な進歩としきりに言うが、あなたにとって本当の意味での進歩とは、厳しい現実と向き合って、地に足の着いた考え方をする事ではないですか?」

 すると彼は、今度は真っ青な顔をして、怒りに震えながら、「君にそんな事を言われる覚えはない」「君から学ぶ事などない」と怒鳴る様に言うので、私は言った。

「現実から逃げ続けた結果、若い頃に比べて変わった事と言えば、口先だけのごまかしが上手になった事と、空虚なプライドが身についた事、加えて頭が禿げ上がった事だけなんて、笑い話にしかなりませんよ。もう殆ど廃人じゃないですか。もう少し、自分をしっかり持たにゃいかんですよ」

 その直後、別の信者の一人が何事かと部屋に入って来たので、その色彩豊かな顔は、それで見納めとなった。これは私の不思議な特性の一つなのだが、相手が怒り出すと、何故か至って冷静になる。
 しかし、よほど頭に来たのだろう。その数日後、知人のカルト信者を通して、手紙が届いた。「人の揚げ足を取らない様に」といった風な事が書いてある。数日の後、私は以下の様な返事を書いた。

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 健全な批判精神を以て為されたそれは、”揚げ足取り”とは言いません。私は信頼するに足る根拠を問うた。あなたは不誠実にも、ごまかし続けた。あなたがあなたが言う程に洗練された精神のあり方を求めるならば、自身すべき事はわかるでしょうから、これ以上は何も言いません。ただ単純に怒りを覚えるだけなら、それはそれでかまいませんよ。ただしそれは、あなたがその程度の人間でしかないという事を意味します。
 しかし、これだけは言わせて頂きます。人間は不安が高まると、親和欲求も高まります。”戦場の友は、一生の友”と言いますよね?あれなどはまさにそれで、人は死と隣り合わせの環境下では、強い不安を覚え、同時に強い親和欲求が喚起される。結果、強い友情が生まれる訳です。
 カルト信者も内心、自分達の教義に根拠がない事はわかっています。つまり、自分の逃げ場所の脆さを、心の奥底では感じ取っている訳です。それが不安となり、親和欲求が高められ、信者獲得へと向かわせる。”あなたは正しいんですよ”と言ってくれる人を、ひたすら求める訳です。しかし、根拠がないという現実は何も変わらないから、どんなに信者を獲得しても一時しのぎにしかならない。あの時も言いましたが、あなたが本当の意味での救いを求めるならば、浮ついた考えは捨て、現実と向かい合い、地に足つけて生きる事です。
 あなた方は信者を獲得する際、”あなたの為””社会の為”といった言い方をする。しかし本当は、自分の為です。自分の逃げ場所の居心地を少しでもよくする為、あなた方は廃人を増やし続けている。利他的精神、福祉の精神でやっていると言いながら、実際はそれと逆の事をしている。
 あなたの信仰が本当に純粋なものであり、また、その信仰に十分な自信をお持ちであるならば、仲間など求めずに、あなた一人でおやんなさい。信仰が組織的なものでなければならない理由など、どこにもない筈です。
 あなたが本当の意味で進歩してくれる事を、私は願っています。
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 以来、私に対する布教活動はピタリと止んだ。
 かつて、オウム裁判で比較的軽い罪名が言い渡された際、”マインド・コントロールは免罪符か?”と轟々たる非難を浴びていたが、それが正当な減刑の理由とはなり得ないと考えているという点に於いては、私も同じである。確かに彼らは、多くの人々とは異なる精神状態にあったのかもしれない。しかしそれは、他者の権利よりも自身の逃げ場の確保を優先した結果であり、弱さ故に犯罪に手を染めてしまうというのは、他の犯罪者の多くにも当てはまる事である。彼らのみが減刑される理由など、何処にもないではないか。
 もう一つ、この話をしておこう。平成の不況が愈々その影を鮮明にして来だした頃、とある詐欺事件が起こった。被害者は中年男性で、300万円出せば、そこそこ資本規模の大きい会社(正確な金額は忘れたが)の部長職を約束する…といった話に乗り、まんまと騙し取られたというものである。
 しかしこの話、どう考えても不自然である。部長職と言えば普通、役員か、若しくは位人臣を極めた職位であり、ましてやそれなりの資本規模を誇る会社であれば、300万そこそこのはした金で買える筈がない。大学出立ての新社会人ならばまだしも、それなりに社会と接点を持ち続けて来た中年男性に、その程度の事が分からないというのは、どう考えても尋常ではない。
 だが、この話にはおまけがある。実はこの中年男性、リストラに遇い求職中であった。つまり、こういう事である。現状彼は、仕事を持っていない。また仮に仕事が見つかったとしても、低賃金で年下の上司の下、働かなければならない。つまり、現実はどう転んでも厳しい。そこに一見、美味しい話が舞い込んだ。それが事実であれば、彼を苛み続けて来た重苦しい思いが一気に解消される。これに対する羨望は、彼を盲目にするには十分だった。つまり彼は、その弱さ故に冷静な判断力を失い、甘い妄想に逃げ込んだ訳である。

 話を二つ、立て続けにした。ここまで読んで来られた方は、既にお気づきであろうが、これらは何れも、人間が持つ同じ性質が根本にある。つまり、人間にはストレスを抱えた際、それを抑制する機能の一つとして、そのストレスの根源から目を背けさせる”信仰”という作用が働く…という性質である。
 冒頭に挙げた話も、実は同じである。強い願望を持つ。それが叶うかどうか分からないという状況は、彼にとっては強いストレスである。そこで決め事をする。”次に見る車のナンバープレートに3が含まれていたら、願いが叶う””ドアを開けて、最初に見た人が男性だったら願いが叶う”は如何なる意味でも願望とは無関係であり、且つかなりの高確率で直ぐにでも実現し得る…換言するならば、直ぐにでも彼をストレスから開放し得るものである。これが信仰である。
 そういった性質により生じた習慣の一部が長く残り、増長し体系化したものが”宗教”や”おまじない”の類ではなかろうか?私は、そう考えている。