もう、随分と昔の話になってしまうが、とある方から親としてのあり方を聞かれた事がある。つまり、親がどうあれば、子は親の望む方向に育ってくれるのか?…と。私より10歳以上も年上の彼女が、まだ30歳そこそこの若輩者であった私にアドバイスを求めるのだから、今になって思えば、彼女も相当に精神を病んでいた― 子育てに悩んでいた ―のではないかと思う。
 実を言うと、私はこれに対し明快な答えを持っている。そう言うと、私を知っている方々は”人の親でもないのに”と思うのだろうか。しかし、親のあり方に対し、子の心の中で何が起こっているのかが分かるのは子の方である。この問題を考える際に必要なのは、親よりも寧ろ子としての視点であろう。
 子を親の望む方向に育てたければ、― これは、子の年齢に関わらず ―親が(子にとって)認めさせたい存在になれば良い。そのためには、何も特別な事をする必要はない。完璧でなくとも― 感情的であったり、時には悪意に満ちていても良いから ―、とにかく直接的であれ間接的であれ、関わる機会をなるべく増やせば良い。つまりは、愛される存在でさえあれば良い。そして、そんな自分の言動に自身が持てなくなった時は、親であるという圧倒的なアドバンテージがあるという事実を忘れている自分に、気付きさえすれば良い。

 パソコンの中に取り込んだファイルを整理していたら、若かりし日の私が父と写っている写真が出て来た。

 今はもう人手に渡ってしまった、大分の実家で撮った写真である。今も変わらぬ私の太々しさは、この頃から健在だった様だ。
 父は小学校から高校にかけて、剣道をやっていた。高校は地元で一番の進学校であったにも関わらず、高校二年生の時の玉竜旗(※01)では10人抜きをやってのけ、その事は新聞にも載り、複数の大学からスカウト― このスカウトたちは、あまりにも強い父を三年生と勘違いしていた ―が来た。二枚目(※02)で長身、おまけにスポーツも出来て頭も良いと来れば、モテない要素はない。事実、高校時代にはミカン箱2つ分くらいのファンレターを貰ったそうである。
 そう言えば、私が幼稚園の頃、父がバレンタインのチョコレートが一杯に詰まった袋を両手に持って帰った― 会社の同僚におすそ分けしても、まだそれだけ残っていた ―事がある。当時、勤めていた会社で、20代にして支所長を任されていた父は、取引先の女性社員に― 既婚者であるにも関わらず ―絶大な人気があったらしい。ついでに言うと、小学校の父親参観の時などでも、私の父は先生やクラスメートたちの間で常に話題になっていた。とにかく、どこにいても目立つ父だった。
 父は、いろいろな意味で際立っていたが、こういった人間にありがちな傾向― 家庭人としての欠陥 ―も色濃く持っていた。思えば、父も― 更に言うと、父の母、つまり父方の祖母も ― 私と同じく自閉症スペクトラムに属していたのであろうが、私は自身が自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群①)であるにも関わらず、特殊な父を長らく許そうとはしなかった。そんな父に一年半前、癌が見つかった。私と同じく筋肉質だった父の体重は50kg台まで落ち、すっかり人相が変わってしまった父の映像― 母が撮って来た ―を見て、私は酷く動揺した。父とは、昨年の12月に和解した。
 父は― そして、私も ―、隔絶していた間の穴を埋めたがっていたが、父に残された時間は余りにも短かった。大分に一人住んでいる父を放っておけないからと、父のもとに駆けつけた母からは、食事が殆ど摂れなくなり、身動きが儘ならなくなり、メールを打つ事はおろか、読む事すらも儘ならなくなった父の状況が具に伝えられて来た。私は、仕事が一区切りする2月下旬に父のもとに赴き、最後の時を共に過ごすつもりだった。
 2月8日の夜、父は突如として苦しみだした。その苦しみから開放するため、大量のモルヒネが投与されたが、それは同時に最後の時までの長い眠りに就く事を意味していた。その前後くらいから、私の頭の中に浮かび続けていた光景がある。真っ白い靄の中に、父の大きな背中が見える。そして、微笑みながらこちらの方を振り返り、「剛史、もう行くけんな」とあの独特の調子で私に呼びかけて来る。「どこにだよ?元気になって、僕らと一緒に暮らすんやろ?」…そんな日など来ようはずがないのは、私にも分かっていた。2022年02月10日の午後2時22分、大分大学医学部附属病院にて死亡を確認。父は、1952年のクリスマスの日に生まれた。
 父の亡骸と枕を並べて寝ながら、父が子守唄を唄ってくれていたあの頃、窓から見える瞬く星を眺めながら、いつかこういった日が来るのかなと漠然と思っていた事を思い出した。すっかり小さくなってしまった父の体を何度も擦りながら、手だけは大きく節くれ立っているのを見て、やはり父はどんなになっても父なのだなと思った。葬儀は、12日の午前10時から始まった。私の出生を届け出た父の死亡を私が届け出て、私に命を授けた父の亡骸に私が火を点す。父は、一時間半ほどで荼毘に付された。
 私は長らく父を嫌っていたが、愛してもいた。軽蔑している所も無くはなかったが、誇らしくもあった。つまりは、あらゆる意味で私と似通っており、それが時に反目を生み、時に葛藤を生んだ。”死して身近になる”と言った人がいたが、生前は照れ臭くて言えなかった事も、今は言える。そして、思うのである。私が死んだ後、あの世で父に「剛史は、やっぱり凄いのぅ」と言って貰いたい…と。そんな自分の思いに気付いた三七日の今日になって、私は改めて、父が親としての責務を果たしていた事に気が付いた。

 お父さん、僕が死んだら、迎えに来てや。そして、この世で出来んかった分、そっちでは親孝行させてな。僕を生んでくれた事、ホンマに感謝してるで。ありがとう。

※01:高校剣道で最も大きな大会。尚、父はこの大会から程なくして― 高校二年生で ―剣道をやめている。ちなみに、私の妹も中学生の時、バスケットボールの全国大会でMVPに選ばれ、後に中学生の日本代表チームの一員として韓国代表と戦っているが、これは多分に父のスポーツ方面の素質を受け継いだものと思われる。
※02:地元(大分)を離れて程なく― 19歳になる前くらい ―、父はとある芸能プロダクションからスカウトされている。”興味があったら、連絡ください”と名刺を渡されたらしいが、武道の精神が抜け切っていない当時の硬派な父の食指は動かなかったらしい。