優れた講師の見極め方

 私は、時として、”お仕事は、何ですか?”と聞かれる事がある。これは甚だ、困った質問である。と言うのも、私は幾つかの仕事を手がけているが、だからと言って「いろいろと、やっています」と言うのは躊躇われる。なぜなら、この言葉は、一抹の胡散臭さを感じさせてしまうからである。ならば、本業を…とも思うのだが、そうなるとまた、いろいろと考えてしまう。そもそも、本業とは何だろうか?私の仕事に費やす時間の半分は講師業で、その内の7割強(講義の時間のみで、週辺り11時間20分)は進学塾の講師であるから、単純に携わる時間で考えるならば、これが最も長くなる。しかし、実際の所を言えば、これにより得られる収入は、私の収入全体に対する割合から言えば、さほど高くはない。つまり、この仕事は基本的に、生活のためにと言うよりは、好きでやっているのである。ならば、最も実入りの良いものを…となるのだろうか。しかし、何かを定義するには、そう定義すべく合理的な理由が必要である。”本業”を定める指標として、収入を主要な要件に定めるべく合理的な理由が、果たしてあるのだろうか?ここまで考え至ると、本業とは単に、自覚の問題でしかないのではないかと思えて来る。ただ、いずれにしても”何が本業であるか”という問題と”その職業人たり得るか”という問題は、根本的に別問題であると心得ている。従って、ここではプロの講師という立場から、優れた講師を見極めるポイントの幾つかを書いて行こうと思う。
 尚、このウェブサイトの記事を見て頂いても分かる通り、私が(講師として)担当する科目は、主に数学である。したがって、ここに記載する内容は全て数学に関するものである事を、あらかじめ断っておく。

① 人間の知的特性を、理解している

 真面目な生徒は、よくテキストを完全に制覇しようとする。具体的には、前書きから(人によっては、帯から)始めて、最終ページまでを隅々まで読み、完璧に覚え込もうとするのである。だが、この方法で勉強する生徒というのは、そのほとんどが途中で挫折するし、仮に最後までやり遂げたとしても、受験には(多くの場合)失敗する。なぜなら、この方法は、非常に無駄の多いやり方だからである。
 人間の記憶について、確かな事が2つある。一つは、限られた時間の中で覚える事のできる量には、限界があるという事。もう一つは、何かに紐つけられた記憶の方が、長期記憶として残りやすいという事である。つまり、他に紐つきやすい形に分けられたものを、段階を踏んで頭に刷り込んで行く様なやり方が、学習法としては最も効率が良い。
 ちなみに、これを説明する際、私はよく次の様な例え話をする。上野動物園の様な広大なテーマパークの全貌を掴むには、どうすれば良いか?おそらく、大概の人が最初に思いつくのは、端から順に覚えて行くといった方法であろう。しかし、これは覚えるのに時間がかかる上、その覚えたものすらも片っ端から忘れて行ってしまうため、頗る効率が悪い。では、私ならどうするか?まず、主要な道だけを覚える。次に、売店や休憩所などを道路の記憶に付け足し、更に池や庭などの記憶を付け足して行く。その後は、(自分にとって)最も主要な動物の場所を覚え、それ以降は二番手、三番手となる動物の場所を覚える。こうやって覚えて行けば、非常に覚えやすいのに加えて、忘れ難く、学習効率が良いのである。
 これが、受験指導となると、どうなるか?一般的な講師は、それぞれ単元ごとに細かくやって行くが、これは上の例で言えば、端から覚えて行く方法に該当し、長い目で見てあまり効率の良い方法とは言えない。一方、私の場合は、まず基本的な知識のみで一通り終わらせる。この際、私は”七割の理解で良い”と言うが、この”七割”というのは、最も本質的な部分のみ(上の例えで言えば、主要な道路に当たる)を端的に言い表した言葉である。そして、この方法で最後まで終わらせ、次に比較的むつかしい問題に取り組み、これを繰り返しやらせる。尚、この”繰り返し”は、インパクトの強い所から順に定着させるために行うものであり、上の例で言えば、”付け足し”にあたる作業である。
 このやり方だと、単元別に進めている期間の瞬間的な学力(ここでは、テストの点数や偏差値を指す)は、低めに出てしまう。しかし、一定期間を過ぎた後には、各単元にこだわってやるよりも遥かに、系統的で骨太な…即ち、受験で戦える学力が身に付いているのである。

② 受験に必要な学力というものを、理解している

 純粋な学問としての数学と、入試の数学は違う。嘘だと思うなら、中学受験の算数の問題を解いてみると良い。(中学受験を経験していなければ)そこそこ以上の難関校の問題には、かなり手こずるはずである。尚、フィールズ賞受賞者である、数学者の小平邦彦氏が、開成中学の入試問題を時間内に解き終えなかったというエピソードからも、この事実は伺い知る事が出来る。
 小学校レベルの算数の知識があるにも関わらず、解くのが難しいという事は、中学受験には純粋な学問的要素以外の要素が含まれているという事である。また、この事は、高校受験にしても大学受験にしても同様であり、これらの難しさはいずれも、条件を複雑に組み合わせる事により生じる、パズル的な要素によるものである(※01)。
 この、”パズル的な要素”は、膨大な時間と数多の優秀な頭脳による蓄積であるから、これらを身に付けずして受験に挑む事は無謀である。なぜなら、これは、有限であり、しかも十分とは言えない試験時間の中で、僅か一人の頭脳を以てして、これらの蓄積を生み出そうとするに等しい行為だからである。入学試験というのは、独創性を発揮し得る程に十分な時間が与えられる訳ではない。従って、受験に必要な学力とは、独創性を発揮しなくても、パズル的な要素を読み解き、活用できる能力に他ならない。
 こういった能力というのは、その思考様式を十分に理解し、また実際に活用する事により培われるものである。従って、パズル的な要素を伴わない、ごく初歩的な問題ばかりを何万問解いた所で、こういった能力が培われる事は、決してない(※02)。しかし、逆に、パズル的な要素が盛り込まれた問題には、純粋な学問としての数学が含まれるから、これらの問題を解く事による、学問としての数学の理解度の向上は望める。また、こういった問題は、全体的に難易度も高いから、簡単な問題ばかりを扱っている際に生じる、集中力の低下といった現象が起こり難いというメリットも、少なからずある。
 これらの事実を総合すると、基礎的な鍛錬はそこそこにしておき、パズル的な要素を含む、比較的高度な問題- 入試問題か、若しくは、それに準ずる問題 -を解く事に重点を置いた方が、学習効率は良い…という事になる。尚、誤解のない様に断っておくが、私は何も、”基礎は、疎かにしても良い”と言っている訳ではない。基礎は(言うまでもなく)大事であるが、基礎を固めるのに、基礎的(で平易)な問題に時間をかけ過ぎる事が非効率だと言っているのである。
 また、この”パズル的な要素を伴う”問題の学習の仕方だが、これにも注意点がある。一つの考え方を身につけるには、(基本的に)一つの問題のみを覚え込むまで繰り返すという事である。例えば、”X”という考え方を身につけるのに、この”X”という考え方が含まれた”α””β””γ”という3つの問題を解く必要はなく、αならαのみを、覚え込むまで繰り返し解いておけば良い。ちなみに、最も悪く、また(難関校を受験する生徒が特に)陥りがちなのが、あれこれと手を広げてしまい、結局どれも中途半端なまま終わってしまうというケースである。一つの問題の思考パターンを繰り返すだけなら、楽に、しかも、完璧に習得できるにも関わらず、幾つもの問題に手を出したばかりに、苦労ばかり多く実りは少ない…これなら、挫折して当たり前である。
 ”効率”という言い方をすると、どうも軽く見られがちな傾向があるが、私は受験に於いて、効率を何よりも重視する。なぜなら、この”効率”の良い学習のあり方こそが”継続”を促し、その”継続”こそが”成功”に結び付くからである。

※01:ただし、この傾向は学校のグレードが下がれば下がる程、強くなる。つまり、大学受験よりは高校受験、高校受験よりは中学受験の方が、この傾向は強くなる。
※02:例を挙げると、教科書レベルの問題を、どんなに解いてみた所で、東京大学の入試にパスできる水準には、決して到達しない。

③ なるべく多くの、定理・公式を叩き込む

 定理・公式を嫌う先生というのは、意外に多い。そして、こういった先生の多くは、おそらく、こう考えている。

 ”頭の中をシンプルにしておけば、迷いが生じない”

 確かに、基本的な考えを推し進めて行けば解ける- つまり、平易な -問題に限って言えば、それも一理なくもない。しかし、残念ながら、難関校の入試問題に関して言えば、それでは全く通用しない。迷いが生じないは良いが、それで行き詰った時に、新たな方針を立てる事ができない。
 ところで、難しい問題とそうでない問題との違いは、一般に思われている程に大きい訳ではない。難しい問題は、いきなり核心に迫るが、そうでない問題は、段階を踏んでから核心に迫る。例えば、比較的やさしい問題は、大問の中に(1)(2)とあって、それをヒントに(3)を解く様に作られているが、難しい問題は(1)(2)を飛ばし、いきなり(3)から始まる。つまり、易しいか難しいかの違いは、基本的にはヒントの有無でしかなく、換言すれば、難しい問題に対応できる学力とは、問題文に促されるまでもなく、自力でヒントとなり得るものを収集する能力なのである。
 こう考えると、与えられた条件から導き出す情報量を増やす事が如何に大切かが、分かるというものであろう。また、論理の省略たる定理・公式が、その際に有用である事も、ご理解いただけるものと思う。
 尚、定理・公式をマスターする事は、試行の回数を増やす上でも役立つ。問題を解いていると、この方向で押し進めて行けば、もしかしたら正解に辿り着くかも知れない…といった局面が、よく現れる。しかし、これはハズレである可能性もある訳だから、時間的な制約のある実際の試験に於いて踏み切るのは、少なからず躊躇してしまう。そういった局面に於いて、公式などで素早く試してみる事ができれば、心理的な抵抗は少なくなる。そして、この事は、”試行回数の増加”に繋がり、それは必然的に、成果の向上に繋がるのである。

④ 効率的な授業の受けさせ方を、理解している

 生徒にノートを取らせる事に、心血を注ぐ先生がいる。こういった先生を目にする度、この種の馬鹿がここにもいたかと、いつも思う。
 私の経験上、ノートを取る事に過度に熱心な生徒に、勉強熱心な生徒はいない。こういった生徒というのは、頭を使う事から逃れるためにノートを取っている- 正当化された、”塗り絵遊び”、もしくは、”手遊び”だと言えば、分かりやすいだろうか -のであり、本当に何かを学ぼうとしている生徒は、ノートはそこそこにして、先生の話の方に集中しているものである。だから、私は、”ノートに取るのは、私の板書(黒板書き)量の30%まで”と、生徒に言ってある。無論の事、これは、ノートを取る事に逃げてしまっている自分や、”書けば覚える”という、まことしやかに囁かれている似非科学の馬鹿馬鹿しさに、気付かせるためである。
 こう言うと、必ずと言ってよい程、次の様な事を言う人間が現れる。「忘れたら、どうするんですか?確認できないじゃないですか」…お答えしよう。忘れたら、先生を掴まえて聞けば良い。簡単な事である。また、私は基本的に、演習問題をテキストに直接やる事を推奨しているが、こう言うと必ず、次の様に批判して来る者が現れる。「もう一度、使いたくなったら、どうするんですか?使えないじゃないですか」…お答えしよう。新しいテキスト(参考書)を、買えば良いのである。テキストなど、高くても、せいぜい3000円〜4000円程度のもの。この出費と、わざわざノートに問題を書き写す手間と時間のどちらを取るべきかなど、少し考えれば分かるはずである。
 これとは、少し話が違うが、私は基本的に、自習(独習)する際の参考書は、最低でも二冊(メインとサブ)準備する事を勧めている。通常、どんなに秀逸と目されている参考書であっても、強い部分と弱い部分、自分に合っている部分と合っていない部分というのは、必ずある。そういった時、もう一冊の参考書を参考にすると、案外と簡単に分かったりするのである。こう言うと、「めったに使わない参考書を買うなど、無駄じゃないか」と反論して来る者がいるが、仮に3000円の参考書だったとして、30個の疑問が解決したとすると、一個あたりの単価は100円という事になる。それでも、果たして無駄だと言えるのだろうか?或いは、この主張が成立するならば、全く同じ理由で、”辞書は、大半の箇所は読まないから無駄だ”という主張も成立しなければならないが、それは果たして、正しいのであろうか?
 参考書とは、読むためではなく、学ぶためのものである。従って、その読書量や、読んでいる時間で損得を推し量るのは、本来の趣旨を逸脱していると言わざるを得ない。

 ここまで、いろいろと書いたが、これらの事は、”合理的な思考こそが、成功への近道である”…という、たった一つの言葉に集約できる。もう、何度も言っている事だが、この辺りが分かっていない人間というのは、余りにも多い。