前に住んでいた家に越して、間もない頃の話である。昼下がり、玄関のチャイムが鳴る。その時はまだ、カメラ付きインターフォンの使い方を確認していなかったので、私は訪問者が何者なのかを確認する事なく、玄関のドアを開けた。私の経験上、この時間帯に訪ねて来る客でまともなのは、運送屋くらいのものである。
客は、四十代と見られる新聞屋だった。両腕には、洗剤やらタオルやらといったものを、一杯に抱え込んでいる。彼は、玄関に入って来るなり、それを物凄い勢いで置き始め、片付けるのが容易でない程に並べ切った所で、ようやく口を開いた。
新聞屋:「新しく、入って来られた方ですね?カーテンが掛かっているのが、見えたもので…」
私:「ええ、この前、越して来たばかりですよ」
新聞屋:「そうですか。いえ、実はですね、このマンションに越して来られた方には、”新聞を取って頂く事になってる”んですよ」
私:「ほぅ、そうですか。では、取りましょう」
”新聞を取って頂く事になってる”とは、あたかも、このマンションに居住する世帯に課せられた義務であるかの如き言い回しである。無論の事、そんな馬鹿げたルールなどあろうはずもないが、この新聞屋は明らかに、そう錯覚させる意図を以て言っているのであり、当たり前の様に粗品を置き始めたのも、そのためのパフォーマンスである。私は、上手い事を考えついたものだと思いつつも、この詐欺師に最大限の心理的ダメージを与えるには、どうすれば良いのかを考えた。相手を上手く手玉に取っていたつもりが、実は取られていたというカウンターを効かせたやり方が、一番効果的だろう。ならば…私は、契約書に必要事項を記入し、彼に渡す。彼は、事務的な調子でそれを受け取ると、何食わぬ顔をして帰って行った。
再び、チャイムが鳴る。今度の客は、三十代と見られる、NHKの集金人だった。
集金人:「すみません、NHKなんですけど、受信料の集金に…」
私:「払いませんよ」
集金人:「お宅に、番組を受信できる設備はありますよね?テレビとか、携帯電話とか…」
私:「ええ。ですが、払いませんよ」
集金人:「あの…一応法律でですね、払わなきゃいけない事になってますんで…」
ここで、彼の言っている”法律”とは、放送法第64条1項の事である。ただ、この条文で謳われているのは、契約する義務であり、支払い義務ではないのだが、彼にそれを説明した所で、即座に理解できるとは思えない。そこで、私は、彼の話に乗っかる事にした。
私:「では、私が勝手に放送を流したとして、あなたは受信料を支払ってくれますか?」
集金人:「いえ、それは…」
私:「もし、私がそれを要求したら、横暴だと思いませんか?」
集金人:「ええ、まあ…」
私:「では、あなたの要求も、十分横暴でしょう?」
集金人:「いえ、これは法律で定められているものですから…」
私:「事の本質は同じでも、法の定めがあれば、横暴ではなくなるのですか?道義上の問題が、法律によって中和されるとでも?」
集金人:「… …」
この時、私の頭の中にあったのは、チャーリー・チャップリンが、その作品(独裁者)の中で訴えた、非合法な殺人と合法的な殺人(戦争)との対比である。
”一人殺せば殺人犯だが、百万人殺せば英雄だ。数が、殺人を神聖にする”
斯くして、私は敵を撃退せしめた。
それから、また、暫くして来客があった。今度は、二人組の中年女性だった。何やら、奉仕活動をして廻っているという。私の経験上、自ら”奉仕してます”などと図々しい事を言ってのけるのは、ほとんど例外なく身勝手な願望を身上とする宗教を寄り処としている連中である。彼女らは徐ろに、”ものみの塔”なる機関紙を取り出した(※01)。どうやら、私の経験則は、真実味を増したらしい。
馬鹿には、大別して二種類ある。ちょっとした馬鹿と、お話にならない馬鹿。前者には自覚があるが、後者には自覚がない。今回の珍客は、明らかに後者であった。私は、面倒なので、矢継ぎ早に切り出した。
「あなた方が何を言いに来たのか、私は知っていますよ。あなた方の仲間になれば、いつの日か途方もない力を持った野郎が空から現れて、気に入らない奴らを根こそぎブッ殺してくれる(※02)から仲間になれと言うんでしょう?都合の良い妄想に逃げ込む事しか出来ない、能なしばかりの世の中にしてやるから、仲間になれと。いや、お構いなく。私は、そんなものを望みはしないし、刃物なら、台所にあります。切れ味鋭いとまでは言えませんが、2,3人なら行けるでしょう。足りなきゃ、そこらの店ででも調達しますよ。それでは、ごきげんよう」
斯くして、私は、再び敵を撃退せしめた。
それから、二ヶ月程が経った頃、例の新聞屋が集金にやって来た。
新聞屋:「新聞の集金に、来たんですけど…」
私:「ああ、そうですか。しかしですね…新聞代は、”無料にして頂く事になってる”んですよ」
新聞屋:「えっ?いや、聞いてませんけど」
私:「まあ、そうでしょうね。言ってませんから」
新聞屋:「!?」
私:「それでは、また」
新聞屋:「いえ、払って頂かないと…」
私:「ですから、無料にして頂く事になってるんですよ」
新聞屋:「誰が、そんな事を言ったんですか?」
私:「私が、決めたんです」
彼は、暫し呆然としていたが、思い立った様に、再び話し始めた。
新聞屋:「いや、そんな事、勝手に決められても…」
私:「勝手に、決めてはいけない?ほぅ…そうですか。では、”新聞を取って頂く事になってる”というのは、誰が決めたんです?」
新聞屋:「!?」
私:「おたくらが勝手に、決めたんでしょう?違いますか?」
新聞屋:「… …」
私:「ならば、私も、勝手に決めさせて頂きますよ。新聞代は無料です。では」
その後、販売店の連中が束になって押しかけて来て、ちょっとした騒動になった。私は、彼らの目の前で、新聞社の本社に電話をかけ、一部始終を説明した上で、どうしても私に新聞代を払わせたいならば、法廷闘争にでも持ち込んでくれとだけ言って、彼らを無理やり追い返した。
昼下がりは、今日も平和である。
※01:数多ある、カルト教団の一つ、”エホバの証人”である。
※02:”ハルマゲドン”という、終末思想。