アメリカのとある大学が行った世論調査によると、アメリカ人のおよそ6割が、「広島・長崎への原爆投下は正しかった」と考えているとの事である。これについて、少し語っておく。
まず、アメリカに何らかの責任があるとするならば、それは国際法に抵触する事による”法的責任”か、非道徳的な行為に対し求められる”道義的責任”の二つに大別できる。この内、法的責任の方は、言うまでもないだろう。国際法では、戦時に於ける民間人への攻撃は禁止されているから、これは明確に違法である。一方で、道義的責任だが、これについては、一つだけ明確にしておかなければならない事がある。
当時の日本は、他の強豪国同様、原爆の開発に躍起になっていた。陸軍の要請により、理化学研究所(現在の独立行政法人理化学研究所の前身だが、当時は理研コンツェルンの中核であり、民間企業だった)の仁科研究室に於いて2号研究が、海軍の要請により、京都大学の荒勝研究室に於いてF研究が行われ、また現実に、非実用的なレベルでではあるが、時間さえかければ製造可能という所まで来ていた。ところが、アメリカは、ロバート・オッペンハイマー率いるロスアラモス研究所が、月産数発という実用的なレベルでの原爆開発に成功した。そこで製造された数発の内の二つが、広島・長崎に投下されたのである。
私は思う。もし仮に、日本がアメリカよりも先に原爆開発に成功していたとして、また、それをアメリカ上空まで運ぶ力が、日本にまだ残っていたとして、果たして、それを使用しなかっただろうか?…と。まず以て、それは無かろう。然るに、日本は原爆投下をしなかったのではない。したかったけれど、出来なかったのである。
実行しよう試み、それを実現させた者と未遂に終わった者との間に、道徳的な差異はあるのだろうか?原爆を落とそうと試み、その力不足が故にそれを実現する事が出来なかった者は、それを実現した者よりも倫理的に優れているという事が、果たして言えるだろうか?残念ながら、それは言えまい。となると、少なくとも、日本がアメリカの道義的責任を一方的に追及する事は、難しいのではないかと思う。