ビジネスに於けるアイディア

 私の仕事の一つが教育関係であると公言しているからであろうか、とある人物から教育関係の新しいビジネスに対する意見をメールで求められた。その人物が意気揚々と語った”新しいビジネス”とは、次の様なものである。まず、生徒を学力上位50%のグループと、それ以下のグループに分ける。次に、学力上位のグループに教え方の指導を施し、学力下位の生徒に勉強を教える様に仕向ける。すると、学力下位のグループの学力の向上が見込めるのは勿論の事、学力上位のグループも準備や教えるという行為そのものによる学力の向上(既存の知識の強化)が見込めるから、ビジネスとして成立するというのである。
 まあ、アイディアとしては面白いのかも知れないが、このビジネスが成功する見込みとなると、限りなくゼロに近いと言って良いだろう。まず、塾は大別して進学塾と補習塾に分かれるが、”生徒が教える”という形態からして、この一連のシステム内に於ける新規の知識の獲得は殆ど見込めない事から、この塾は補習塾としての性格が強くなる。つまり、この時点で市場は圧倒的に狭まるのである(※)。次に、学力下位の生徒の立場になって考えてみると、彼らは授業スキルが圧倒的に乏しい― それ以前に、基本となる知識そのものが乏しい ―相手に教わるのであり、しかもそれには同級生か、もしくは歳の近い人間から教わるという屈辱的な境遇が伴う。つまり、学力下位に分類された時点で、その大半が抜けてしまうであろう事が予想されるため、学力上位の生徒と下位の生徒の双方が一定の割合で存在し続けなければならないこのビジネスモデルは、そもそも成立しないのである。
 だが、彼の問題点の本質は、このアイディアそのものにあるというよりは寧ろ、アイディアというものに対する考え方の方にある。そもそも、何を以て”アイディア”と呼び得るかというのは、それが何を目的とするかにより異なる。これは、例えばタイムマシンを例に取ってみれば、分かりやすいのではないかと思う。フィクション物を執筆するというのであれば、”時間を移動する装置”という着想のみで事足りるが、”時間を移動する装置”という着想が得られただけでは、タイムマシンを発明した事にはならない。ビジネスに於けるアイディアというのも同じ事で、それがアイディアと呼び得るのは、目的を実現しつつ継続的に利益を生み出すサイクルまでをも含む一連のシステムを考え出した時であり、新規ビジネスを始めるにあたり本当に難しいのも、実はそちらの方である。彼は、百里の道の一歩を踏み出した時点で、その全行程を踏破しつつあるかの如き錯覚に陥った。その認識を改めない限り、彼の成功はどこまで行っても、運頼みの粋を出る事はないだろう。

 新しいビジネスの話しをすると、大して成功してもいない事例を持ち出し、”それは、○○がやっている”といった事を頻りに言いたがる輩がいるが、言うまでもなくこれは、ビジネスに於けるアイディアというものに対する認識の甘さから来ている。ビジネスとして確立していると言い得るのは、成功して然るべき形態で運営されている場合に限る…この程度の事すら分からない人間がビジネスを語るが如きは、滑稽という他ない。

※:進学塾と補習塾では、進学塾の方が需要が遥かに大きい。