”青い鳥”という話がある。チルチルとミチルという幼い兄妹が、幸福の象徴である青い鳥を探しに冒険して廻るが、結局それは自分たちの部屋で昔から飼っていた”キジバト”だったという話である。人間は願いが叶うと、その瞬間から慣れが生じ始める。そして、その慣れがある程度のレベルまで達すると、今度はその状況が特別なものだとは思えなくなってしまい、せっかく得られた幸福感も失われてしまう。つまり、人間の幸福感というものは、多分に(絶対的ではなく)相対的なものなのだという事である。
この事実から、導き出される一般則がある。今を幸福だと思えない者に、恒久的な幸福など訪れないという事である。あなたが幸福でい続けたいならば、今あるものを大切にしなさい…モーリス・メーテルリンクが”青い鳥”の中で言っているのは、そういう事であり、それは全く以て人間の本質を言い表している。
”懺悔”の中で、私の大切な家族であるコロがこの世を去った事は既に書いた。そして昨日、そのコロと三歳違いの異父妹のチロが、この世を去った。今、こうやっていると、いろいろな事を思い出す。私が家に帰ると、ちぎれんばかりに尻尾を振って喜んでくれたチロ。私が座っていると、決まって私の膝の上に乗りたがったチロ。私が部屋にこもって作業をしていると、部屋のドアをカリカリと引っ掻き、中に入れてくれる様、催促して来たチロ。ありふれた表現かも知れないが、日常の何気ない日々こそが幸せだったのだと、私は今頃になって気が付いた。
私は今、こんな思いを巡らしている。私が死ぬ。すると、目の前に一面のお花畑が広がり、気持ち良い陽の光が、余す所なく降り注いでいる。遠くから、何やら小さいものが近づいて来る。コロだ!!私は思わず駆け寄り、力いっぱい抱き締める。すると、今度は何かが後ろから私の背中を叩いて来る。チロだ!!私は彼女を抱え上げ、力いっぱい抱き締める。すると、今度は遠くからたくさんの物陰が私の方に近づいて来る。祖父がいる。祖母がいる。そして、生前縁のあった死んだはずの人や動植物たちがいっぱいいる。いや、そればかりではない。捨ててしまった家具や家電、おもちゃといった道具類の数々までもが私を取り囲み、一様に皆、笑みを湛えている。みんな、今までどうしていた?死ぬと、こんな所に来るのか?君たちは今、幸せなのか?そうか…いや、良かった。本当に良かった。私は罪深い人間だから、私に対する不満はいろいろとあるだろうし、恨み言も言いたいだろう。幾らでも言ってくれ。私は何でも聞くし、幾らでも謝る。私は、とにかく君たちが幸せでいてくれる事が嬉しい。君たちは、いつでもここにいるのか?そうか…じゃあ、いつでも会えるね。君たちは、いつまでもここにいるのか?そうか…じゃあ、いつまでも一緒だね。いつまでも…私は、科学的な人間としては失格なのだろう。常に知的で冷静な人間でありたいと、願ってはいるけれども、私の中の弱さが、それを許さない。
私の青い鳥は、私の下から巣立って行ってしまった。その抜け殻を見るのは悲しいけれど、私もそろそろ前に進もうと思う。いつになるのかは、わからないが、私も必ずそっちへ行くから。その時はまた、私の膝の上に乗っておくれ。また一緒に、散歩に行こうな。ありがとう、チロ。