”コモン・センス(Common Sence)”は、よく”常識”と訳される。これは、明確に誤訳である。例えば、ビルの10階から落下したら人間は死ぬ…といったものはコモン・センスである。また、私が髪を三つ編みにし、セーラー服を着て街中を徘徊すれば、たちまちの内にちょっとした有名人になる…というのもコモン・センスだろう。しかし、例えば、その日に初めて会った人とは挨拶をするだとか、部屋に入った時には帽子を脱ぐ、ゴミを道端に捨てないといった事は、”常識”ではあっても”コモン・センス”ではない(※01)。つまり、コモン・センスとは、”必然性に対する感覚”とでも言うべきものであり、マナーや道徳といった、いわゆる価値観に属するものは、それに含まれない。
実際の議論の場に於いて、聡明な人間とそうでない人間とを見分けるのは、そう難しい事ではない。聡明でない人間は、ただただ自分の価値観を並べ立て、同じ価値観を有する者同士で馴れ合う。そして、馴れ合いによる”ゴリ押し”が通れば、その議論は建設的なものであったとみなすのである。つまり、聡明でない人間にとっての”建設的議論”とは、単に自分の趣向に沿ったもの、己の感情を満足させてくれるものでしかなく、また、そういった人間は、それが実質的には始めに結論ありきの”おしゃべり”に過ぎず、議論を始める前と比べ何ら進展してはいない事、冷静に見れば、それが単なる自己満足にしかなっていないという事実に自ら気付くという事は、殆どない。一方で、聡明な人間は、”納得が行くかどうか?”といった価値観に基づく問題の一切を排除し、”客観的事実や必然的事実(コモン・センス)に基づいているか?””論理が正しく展開されているか?”に留意しつつ、議論を進めて行く。そしてそれは、その議論に参加している誰もが気付かなかった点に気付き、より深い理解を促し、合理的な方策を立てる手助けとなるのである。つまり、聡明でない人間にとっての建設的議論が、単なる自慰行為であるのに対し、聡明な人間にとってのそれは、知的共同作業なのである。
また、聡明でない人間が議論をする際の特徴として、個々の価値観に依存する、定義の曖昧な言葉(常識・正義・倫理・道徳など)をむやみに使いたがるという点が挙げられる。例えば、誰かが自分の意に沿わない主張をする。頭の弱い人間は、それが”気に入らない”から、何とか反論をしようと試みる。しかし、この場合の反論は無理な反論、反論のための反論であるから、明確にやってしまえば、その陳腐さが浮き彫りになってしまう。そこで、定義の曖昧な言葉の出番である。定義が曖昧であれば、それに依存している主張そのものも曖昧になるから、陳腐なものであっても、その事実は露見しにくい。また、元が曖昧なだけに、その定義を自分に都合よく解釈し主張しても、そのおかしさは少なからずぼやけてしまう。つまり、”ごまかし”が利くのである(※02)。一方で、聡明な人間は、単なる価値観の羅列や、言葉の曖昧さが建設的議論の妨げになる事をよく理解しているから、これらの言葉は基本的に使わないか、使っても定義が明確な形で使用する。また、元来が内容のある主張をしているのに加え、追及しているものが本質的理解や、それに対する合理的な方策であるから、そもそもが”ごまかし”など必要としないのである。
一般に日本人は、議論が苦手だと言われる。それは、”知的でない”という言い回しで表現される事が多いが、それは上記の様な、聡明でない人間が多い事に起因している。また、私は冒頭で、コモン・センスと常識との違いを述べた。建設的議論をする上で、コモン・センスはベースに据えても良いが、価値観をベースに据えてはならない。この、建設的に議論を進めて行く上で明確に区別しなければならない2つのものを混同してしまっているという事実そのものが- 即ち、それらを”常識”という言葉で一括りにしてしまっているという事実そのものが -、日本人に知的な人間が少ないという現実を、如実に反映している様に思える。
※01:コモン・コーテシー(Common Courtesy)と言う。
※02:もっとも、聡明でない人間は、ここまで考えた上で行っているのではなく、無意識的に行っている場合が多い。過去の”ごまかし”の成功体験の積み重ねが、こういった行為を反射的に行わせるのである。