「説教好きな人間というのは大概、自己チュー(自己中心的)ですね」
私の知人が、こんな事を言って来た。私は答えた。
「当然、そうでしょうね」
最初の一言は、自説へと繋げる為の布石である。つまり彼は、説明を求められる事を想定し、上の様に話し始めたのだが、私が思いがけず、疑問を差し挟む余地はないとばかりの受け止め方をしたので、予定が狂ってしまった訳である。すると彼は、次の様に問いかけて来た。
「そう思いますか?」
私は答えた。
「思いますね」
無論の事、「そう思いますか?」は説明を促しているのであり、”Yes”か”No”かを聞いているのではない。しかしながら、そうならそうと素直に言うべきというのが、私の考えである。私はこういった、遠回しな言い方というのが好かない。
お説教好きな人間が自己中心的(わがまま)であるというのは、当然と言えば当然である。そもそも、お説教は誰のためにするものか?お説教を好む人間がよく口にする様に、そのお説教をしている相手のためではないだろう(無論、ごく限られた場合に関して、例外を認めないでもないが…)。事実、この種の人間は、どんなにその人間が過去に言われた点について改善したとしても、その次は必ず、別の粗を探そうとする。粗がなければ、無理やりにでも作り出す。先日言ったのと全く逆の事を言ってでも、何とか非難する口実を、そこに設けようとする。要は、相手を改善させる事ではなく、お説教する事そのものが目的なのである。お説教とは基本的に自分のため…自身の自己顕示欲を満たすため、行為者自らの欲望を満たすために行われるものである。
また、お説教をされる事が、不快感を伴うという事を知らない人間はいない。つまり、お説教好きな人間というのは、相手が不快感を覚える事を重々承知していながらにして、それを行っているのであり、更に言えば、そういった人間は、自身の欲望を満たす為ならば、他者がどんなに不愉快な思いをしようとも、一向にかまわないという感覚の持ち主なのである。ならば、説教好きな人間がわがままなのは当たり前だろう。別に不思議でも何でもない。お説教という醜悪極まるこの行為は、それを行うに相応しくない人間であればある程、その行為に積極的であるという点に於いて、実に特徴的である。
どの都道府県にも制定されている”迷惑禁止条例”の適用範囲を、お説教にまで広げる事は出来ないものだろうか?こちらの方が、騒音などよりも、遥かに迷惑だと思うのだが…。