懺悔

 1998年07月、我が家は突如として、家族が一人増えた。マルチーズでもない、ヨークシャテリアでもない…つまり、小型の雑種犬なのだが、純白の美しい毛並みが目の前を横切ると、私たち家族は誰一人として、それに手を差し伸べずにはいられなかった。
 少し大きくなると、幾つかの問題点が浮き彫りになった。マーキングは基本的に、オスの大切な仕事である。それは分かるのだが…その辺りは私とて、重々承知してはいるのだが、室内犬なだけに職場は屋内で、しかも彼は、かなりの仕事熱心と来ている。私は、何度か彼の仕事を、足の裏だとか置いておいたカバンであるとか、或いは、もっと嫌なもので確認した。それが毎日ともなると、そのストレスは看過出来るものではない。私は、何度か彼をぶった。時には、結構ひどく叩いた事もあった。しかし、その翌日になると、彼はまた同じ事を、同じくらいの頻度でやった。
 それから、三年ほどが経過すると、今度は、ただでさえ小さい彼を、もう一回り小さくした様な彼の父親違いの妹が、私の家の家族になった。彼女は、兄とは違い、人と見れば誰にでも懐いた。彼女は門番よりも、アイドルに向いていた。瞬く間に家族全員の心を掴み、また、見ず知らずの通行人のハートさえも、その目尻の下がった愛くるしい目で見事に射抜いた。
 そんな彼女の影響もあり、彼の我が家での立ち位置は独特だった。彼は、私の母には確実に懐いていた。しかし、私や私の父は、気を遣う少し嫌な相手だったと思う。一方で、私の弟は、彼にとって良い喧嘩相手だった。そして、私の妹に対しては…付かず離れずといった所であろうか。つまり、彼が本当の意味で懐いていたのは、私の母親に対してだけだった。
 一度、こんな事があった。夕暮れ時、当時の実家の近所の海岸で、リードを付けないまま兄妹を散歩させていると、いつからだろうか、兄の姿が見えなくなった。呼べども呼べども、薄暗がりに変化はない。幾ら叫んでも、どんなに目を凝らして見てみても、彼の姿は見えない。もしかしたら、家に帰っているのかもと思い戻ってみたが、やはり見当たらない。もうすっかり暗くなってしまっているので、夜が明けてからと思うのだが、夜に起き出しては探し、明け方に起き出しては探しで、一晩の間まともに寝付く事は出来なかった。ところが、次の日、事態は急展開を迎えた。彼を探しに海岸に行く途中、彼を抱えた女性に出くわしたのだ。話を聞くと、どうやら、その女性の家の庭に迷い込んでいた所を、保護されたらしかった。彼は、私に抱えられても、何事もなかった様にキョトンとしている。困った家出犬だ。でも、親切な人に拾われて良かった。
 そんな彼が11歳を過ぎた頃、ある異変が起こった。散歩に連れて行った際、呼べば急ぎ駆け寄って来ていた彼が、私の母を無視し始めたのである。私の母は最初、随分と横柄になったなと少し腹立たしく思っていた。口が利けないというのは、不便な事である。彼の耳がすっかり遠くなってしまっている事に気付くのに、随分と長い月日を要した。
 老いるのは、犬も人間も同じである。しかし、その早さは格段に違う。耳が聞こえなくなって少し経った頃には、彼の歯は全て抜け落ちてしまった。目は、浜辺に打ち上げられた魚の様に白く濁っている。「何のために生きているの?」という問いかけに対し、「死なないためだよ」という返事が返って来そうな、そんなみすぼらしい風体を晒しながら、それでも一生懸命に生きている。しかし、正直いろいろと手間はかかった。食事をする時も排泄の時も、必ず何かを汚した。仕方ないのだけれども、悪気はないのだけれども、私は、彼に対し怒りを覚える事が度々あったし、いなくなれば良いのにとさえ思った事もあった。しかし、私にそう思わせていたのは、彼に対する愛情が足りなかったからでも、彼に対する憎しみがあったからでもない。私には、想像力と強さが欠けていた。それが、今でははっきりと分かる。
 彼がまだ元気な頃、ほんのちょっとの手間を惜しまず散歩に連れて行ってやれば、そんな手間など吹き飛んでしまう位に喜んでくれたろうにな…と思う。或いは、仕事の帰りに店にでも寄って、僅かばかりでも美味しそうなお肉を買って帰ってあげていれば、彼はちぎれんばかりに尻尾を振って喜んでくれたろうにな…とも思う。でも、それはもう叶わない。足が棒になるまで歩き廻っても、世界中の草の根を分けて探しても、彼はもうどこにもいない。それが今は、堪らなく悲しい。
 書きたい事は、山ほどある。思いは尽きない。だが、私にはこれ以上かけない。涙で、前が見えない。

 コロ、17年間いろいろとあったね。コロ、17年間いろいろとごめんよ。そしてコロ、愚かな飼い主のために、こんど必ずどこかで会って、君の喜ぶ事を心ゆくまでさせて欲しい。君と家族になれて、本当に良かったと思うよ。ありがとう、コロ。