科学的であるとは、どういう事か?

 血液型別性格分析なるものがある。これは、血液型と気質の相関を前提とした上で、それぞれの特徴を探るといった趣のもので、代表的な似非科学の一つとされている。
 これを支持する者の多くは、”これは、占いの類ではなく科学だ”と主張する。”統計により割り出されたデータに基づいているから、科学的だ”…と言っているのである。無論の事、統計学そのものは理論がしっかりとしているから、これにより検証されたものに科学の名を冠する事に異論は無い。また、反証可能性という点でも- カール・ポパーの定義に従えば -”科学的”と言えるだろう。
 しかし、それらのデータが認められていないという現状が意味する所は、データの採取に不手際があるか、或いは、再現性がないという事であろう。また、20世紀初頭には、この種の研究が盛んに行われていたが、そこで検証されたデータが有意なものとして認められていないという現状が意味する所は、それらが科学の目に適う程のものではなかったという事である。事実、あれらの研究は恣意に満ちており、科学的な検証が極めて非科学的な形で行われていたというのは、よく知られた話である。
 一時期、TV番組などでは、血液型による行動パターンの違いに統計的な検証が試みられていた。それには、血液型により分類された集団の行動パターンの違いが余りにも顕著に現れており、しかもその”顕著な違い”は他番組でも同様に見られた。偶然とは、考え難い。
 だが、もしあれが本当だとしたら、血液型による気質の違いが- 少なくとも統計的には -示された(サンプル量が、少な過ぎるが)事になるから、学会はおろか社会をも揺るがし兼ねない大発見である。しかし、あの程度の検証ならば過去に何度も試みられてるであろうし、その検証であれだけ顕著な違いが現れているならば、それらはとっくに専門家たちの目に留まっている筈である。それらの検証により、有意差が見られないからこそ、現在では”血液型により、気質に違いが生じる”という説そのものが否定されていると考えるのが妥当であろう。
 そう考えれば、あれらの番組は眉に唾を付けて見る必要がありそうである。そもそも、娯楽番組の制作スタッフが第一発見者…などという馬鹿げた事は、およそ有り得そうにない。そうこうしている内に、それらの番組の中の一つで”やらせ”発覚。当然である。
 だが、誤解して欲しくないのは、私は”血液型により、気質に違いが生じる”という説そのものを否定している訳ではないという事である。これを肯定するだけの根拠は見つかっていないが、逆に完全に否定し得るだけの根拠ない。ならば、現段階で有力な証拠が得られないだけで、実際には血液型と気質との間に相関がある可能性は残るはずである。少なくとも、それが証明できないから、関連は無い…というのは、神の非存在を証明できないという事実を以て、神は存在すると主張するに等しい詭弁である。
 では、私の立ち位置は何処にあるのか…と問われれば、こうである。

 ”どちらとも言えない”

 拍子抜けされた方も、いるのだろうか。しかし、どちらかであると断言する理由が無い以上、こう結論するのが最も”論理的”であり”科学的”である。実は、この辺りは結構まちがえ易い。
 1870年台にアメリカで設立された、”エホバの証人”なるカルト教団がある。日本でも信者の数は多いので、ご存知の方も多いと思うが、この教団が刊行している”ものみの塔”なる機関紙はいつもパターンが同じで、導入部分の至る所に科学知識がちりばめられており、肝心の詰めの段階に入ると途端に教義が絡んできて論理が飛躍してしまう。つまり、科学的に”見せかけて”いるのである。しかし、言うまでも無く”科学的である”という事と、”科学の知識を用いて説明する”いう事は違う。科学的であると言い得る為には、少なくとも客観的事実に基づき、論理が正しく展開されている必要がある。その点に於いて、彼らの主張は本来的な意味での”科学的である”という事とは、決定的に異なるのである。
 オカルト一色のTV番組ならば話は別だが、多少なりともまともな番組になるとよく見かける顔がある。早稲田大学教授の大槻義彦氏(現在は退職しており、名誉教授)である。様々な”現在の科学では説明が付かない現象”に対し真っ向から科学的な説明を試みる彼は、私自身かなりのお気に入りである。しかし、彼の説明は、科学者に求められるレベルの厳密さ…という点から言えば、多少雑な印象を受ける。
 彼の手法は、”霊的な現象と呼ばれているものを再現する”というものである。しかし、それは厳密には”有力な仮説の一つを示した”のであり、それを以って”解明”とするのは詭弁である。無論の事、この種の現象の多くはそう頻繁に起こる訳ではないから、それ以上に詰めるのは難しい。しかし、それならばそれで良い。私が彼に望むのは、厳正なる論理的表現、即ち、”こういった理由で、十分に起こり得る”という、可能性ならば可能性を示唆した説明であり、(オカルト信者たち宜しく)結論を出し急がない科学者然とした態度である。
 科学は、本質を映し出す鏡である。部分的にぼやけているのは構わないが、歪みが生じてはならない。そしてそれは、現状分かっている範囲で的確に- 即ち、客観的かつ論理的に -結論する事により実現される。90%の確率で正しいならば、90%の確率で正しいと結論すれば良い。50%の確率で正しいならば、50%の確率で正しいと結論すれば良い。蓋然性が高いならば、そう結論すれば良いし、どちらとも判別が付かないならば、そう結論すれば良い。90%の確率で正しいものを、100%正しいと結論する時、その鏡には歪みが生じている。無理を通し、通理が引っ込んでいるのである。