2026年05月01日付の本ウェブサイト記事である、”告知していた、小説― 流星 ―の公開について”でお伝えしていた小説が、Amazon Kindleにて承認・公開(出版)されたので、ここにお伝え致します。尚、本作品の内容紹介の全文、及び、著者あとがきのほぼ全文も、ここに掲載いたします。
【内容紹介】
――その出会いは、一瞬で人生を変えた。
そして、その別れは、永遠に消えなかった。
もしもあなたに、
「二度と戻れない、子供だったあの頃」の思い出があるなら――
この物語は、きっとあなたのためにある。
転校ばかりの人生を歩んできた少年・イワン。
誰よりも賢く、誰よりも冷静で、
そして誰よりも孤独だった。
人間というものを“理解”できてしまうがゆえに、
誰とも深く関わろうとしなかった少年。
だが――
地方の小さな町で出会った一人の少女が、その均衡を崩す。
スワン。
無邪気で、素直で、少しだけ臆病。
けれど、まっすぐに人を信じるその姿は、
イワンの中にあった「触れてはいけない部分」を、ゆっくりと溶かしていく。
二人は、ただ一緒に歩くだけだった。
田舎道、広場、水路、誰も知らない場所。
それだけだったはずなのに――
“世界が変わる”には、十分だった。
やがて二人は、
秘密を共有し、
誰にも見つからないように会い、
誰にも知られない関係を築いていく。
それは、子供の遊びでも、ただの友情でもない。
名前をつけるには、あまりにも純粋で、
あまりにも危ういものだった。
そして、別れは突然やって来る。
理由も告げられないまま消えた存在。
取り残された記憶。
取り返すことのできない時間。
それでも、人は忘れられない。
あの時の空気。
あの時の言葉。
あの時の、たった一人の存在。
再び訪れたあの場所で、
イワンが見上げた夜空には、無数の星。
そして、一筋の流れ星。
願いをかけるには、あまりにも早すぎる光――。
アスペルガー症候群(現診断名:ASD)とギフテッド(高知能)という、2つの特殊性(Twice-Exceptional/2E)を持つ著者が贈る、2Eの視点から描いた少年の頃の物語。著者の半自伝的小説。
【著者あとがき】
本作を起稿するに至った経緯は、少し複雑である。私は当初、この作中のイワンとスワンを、別の作品に登場させる予定であった。その詳細については、敢えて省くが、その作中に於けるスワンの役割は、本作ほど大きくはない。イワンの人生を、本作よりも長いスパンで描いた、その初めの方で少しばかり触れられるといった程度のものであり、言ってしまえば、その作品を構成する要素の、ほんの一部分に過ぎなかった訳である。ところが、その下りを書いている内に、私の中のスワンが、私に語りかける様になった。そして、スワンが言うのである。
「ねぇ、私の事、もっと書いて」
本作の登場人物には、全てモデルがいる。そして、スワンは私の初恋の女の子であり、その子の面影が、少年時代に還った私の魂に、何度も呼びかけて来るのである。そこで、私は新たに”流星”と銘打ち、今度は主人公イワンとスワンをメインに据えた物語を書き始めた。つまり、本作は、そもそもが別の作品のスピンオフとして誕生したものなのである。
先に、本作の登場人物には、全てモデルがいると書いた。既に、お分かりの事と思うが、イワンは少年期の私自身である。そして、本作に登場する人物の大半は、私が通った三つの小学校で関わりのあった人物である。ただし、それらモデルになった人物にまつわるエピソードは、多分に― 本作には出て来ない ―他の人物らのそれと重複しているから、その意味に於いて事実とは言い難い。例えば、スワンとのエピソードに関して言えば、スワンというよりは寧ろ、その前後に出会った複数の人物との間にあった、実際のエピソードが基になっている。
本作の主な舞台となっているのは、私が1983年8月から1985年3月まで在籍した、大分市立高田小学校の周辺である。しかし、改めて調べてみると、嘗て私が住んでいた家も、その隣にあった芋畑も、広場― これは、実際にはゲートボール場であった ―も、田圃の幾つかも、ビニールハウスも、廃屋も、学校の正門の横にあった楠も、今(2025年7月)では既に無くなってしまっている。また、スワンたちが住んでいた集合住宅や、学校の校舎や講堂も建て替わってしまっており― 但し、講堂は私の在学中に既に建て替えられていた ―、今となっては、現地の様子から往時を偲ぶ事すらも儘ならない状況である。ただ、私が住んでいた時期に建て替えられた食料品店と、最後にイワンが星空を眺めた野原の上に架かる橋― 高田橋 ―は、当時のまま健在であった。本作より少し後の話になるが、中学一年生の頃の私は、よくあの橋の袂で釣りをしていた。また、同じ時期、高田小学校の卒業生のほぼ全員が進学する、当時は新設校で風紀の乱れていた大分市立東陽中学校の不良四人を相手に喧嘩をした― 勝ったと言えるかどうかはともかくとして、取り敢えず追い払う事には成功した ―のも、あの橋のすぐ側にある、水門の近くであった。懐かしい思い出である。
スワンはどうしているのだろうかと、今でも思う事がある。当時、英才児にして悪童だった私は、教師によく褒められる反面、よく怒られてもいた。中でも、― 作中では、希薄な関係性として描かれているが ―パーヴェルとモデスト(のモデルになった人物。以下同じ)は、その最たる被害者で、彼らとの間でトラブルを起こしては、よく母が菓子折りを持って謝りに行っていたものである。その辺り、スワンにしても同様で、私と会った後は、いつも泣きながら帰っていた。無論の事、私はスワンを愛していた。その爪の欠片、髪の毛の一本一本に至るまで愛おしいと思えたのは、おそらくは彼女が初めてである。作中のイワンは、スワンに対して優しい。それは、心ときめく相手を前にしても、ある程度の心理的余裕があるからだ。だが、― 本来は ―人付き合いが苦手で小心者である私には、それがなかった。あれが、もう少し成長してからであれば、おそらくは違う結果になっていただろうと思う。しかし、実際の私は、そのもどかしい思いを、粗暴という形でしか表現する事が出来なかった。だから、本作で私は、その後悔と無念をイワンに託し晴らしている。情けない話だが、それが私のスワンに対する、せめてもの償いである。
実を言うと、私は本作を執筆するにあたり、スワンのモデルとなった人物の名前と引っ越し先の都道府県名― これについては、私が引っ越した一年半後に再会した、アンドレイから聞いていた ―でAND検索した事がある。すると、公立中学校の数学教諭をしている、同姓同名の人物が一人だけヒットした。もっとも、女性であるから、― 最近は、結婚後も旧姓で働く女性が増えているが ―結婚すれば高確率で苗字は変わるし、苗字も名前もありふれたものであるから、同姓同名の別人という事も存分に有り得る。しかしながら、もしあれが彼女であるならば、今までに幾つかの塾・予備校・大学や専門学校などで数学講師として教鞭を執って来た私からすれば、心の何処かでは繋がっていた様な、そんな嬉しさは少なからず覚える。尚、(以降、作品の内容に触れるため省略)。
主人公イワンについて、もう少し語っておこうと思う。本作を読み進める中で、我が分身たるイワンに対し、”もしや…”という思いを持たれた方も多いと思う。確かに、イワンは変わっている。これは、高知能とアスペルガー症候群― 現診断名は、自閉スペクトラム症(ASD) ―という、二つの特殊性― Twice-Exceptional(2E) ―を持つ事によるものである。今でこそ、ASDは広く知られる所となったが、私が子供だった当時、世間は全くと言って良い程、これに対して無知であった。事実、私が都内の― 数少ない ―専門医による診断を受けたのは、30歳を過ぎてからの事である。逆を言えば、それまでは周囲の無知と無理解の中で生きて行くしかなかった。もっとも、私の場合、フルスコアを叩き出す程の高い知能― 知能指数(IQ) ―を有していたが為、通常発達― いわゆる、”普通の人” ―が何を思い、どう考えるのかが手に取る様に分かるのに加え、仕事でも僅かな努力を以て、― 周囲を嫉妬させずにはおかない程に ―高い職能を身に付ける事が出来た。つまりは、その気になれば、通常人の中に紛れて生きて行く事が可能だった訳である。だが、大半のASDを有する人間にとって、この世界はやはり生き辛い。特に、ASDの優位性― 知能が高い傾向にある事や、偉人や天才に多い事など ―が広く知られる様になり、また更なる研究により、そのエビデンスが積み重なって行くにつれ、ASDに対し悪意ある解釈をしたがる者の数は、増えて行っている様に思う。日本人は、好きなものを過大評価し、嫌いなもの― 或いは、認めたくないもの ―を過小評価したがる傾向― 認知バイアスの一種 ―が、他の先進国の人たちよりも強い。これは、理性よりも感情が優位である事― 知性の欠如 ―に因るものである。加えて、ルース・ベネディクトがその著書― 菊と刀 ―の中でも指摘している、恥の文化の影響― 強弁により取り繕われただけの、薄っぺらい倫理・道徳に対する自浄機能の弱さ ―も、少なからずある様に思う。ASDの人間なくして、世の中の進歩はない。私の様な、ASDの人間の特性を生かすべく、日本人が本物の知性を持ち、また本当の意味での― 思慮分別のある ―大人になってくれる日が来る事を、私は願ってやまない。
最後に、二点だけ補足しておく。
・流星(流れ星)の正体は、通常は氷やドライアイス、鉱物などが入り混じった、直径が1㎝に満たない程度の小さな固形物である。これが、高速で大気圏に突入すると、その際に生じた空気との摩擦熱により、運動エネルギーは急激に増加― 熱の本質は、運動エネルギーである ―する。また、この運動エネルギーがあるレベルを超えると、それまで原子・分子により捉えられていた電子が遊離し、それぞれが安定した状態(低エネルギー状態)から不安定な状態(高エネルギー状態)へと遷移― この状態の事を、”プラズマ”と言う ―する。この時の電子の持つエネルギーが開放され、それに伴い放たれる光こそが、流星の持つ輝きの正体である。尚、流星は通常、地表に堕ちる前に燃え尽きるものであるから、当然に行き着く先は地球である。つまり、流星は― 通常は ―星でもなければ、どこかへ飛んで行くものでもないから、本作に於いて比喩的に用いられているこれに関する知識は、全く以て正しくない。この様に書いてしまうと、甚だ野暮ったく思えてしまうが、少なからず読者に誤った知識を植え付けてしまうであろう事が懸念されるので、ここに指摘しておく。
・本作では、敢えて日本人名の使用を避けている。これは、― 読者が知っている ―同じ名前の別の人物のイメージを極力排除し、作中の登場人物の個性をそのまま感じ取って頂く為の、私なりの配慮である。外国人名を使用する事に、違和感を覚える方がいるであろう事が想定されるので、ここに断っておく。
