ごまかしの分析

 物事をごまかす際に使われる言葉の内、よく耳(目)にするものの幾つかを、取り上げたいと思う。

【分かる・解る】

 分かる(若しくは、解る)とは、ある事柄に対し、その論理構造を認識しているという実感を表す言葉である。尚、論理構造を持たないものに対する、正しいという実感(これはつまり、”思い込み”である)を表す言葉は”思う”である。
 よく、数多ある価値観の一つであるに過ぎないにも関わらず、それに賛同しない人間に対し「分からないの?」と詰め寄る人間がいるが、これは”思う”を”分かる”と言い換える事により、単なる価値観の問題を、あたかも支持されるべく十分な理由がある(論証されている)かの如く見せかけただけのごまかしである。
 この様な確信犯(※01)でなくとも、頭の弱い人間が(結果的に)ごまかしに走ってしまうケースもある。例えば、長い期間、何かに携わって来た人が、ある種の傾向を実感した(”経験的に分かる”というのが、まさしく、このパターンである)場合。こういった人間は、自分が何かを”分かっている”のだと言って憚らないが、これは、幽霊が存在する事や、地球外知的生命体が珍妙な形の乗り物に乗って来て、しばしば地球上空に姿を現している事が分かっている人が言っているのと同じ意味での”分かる”であり、実質的には”思い込んでいる”だけの話である。
 人間の感覚というものは、とかく嘘つきである。例えば、占いや予言の類を信じる人達は、殊それに関しては好意的な解釈- 拡大解釈する事により、当たっていると判断する -をしがちだし、当たったという強い印象により生じる記憶の偏りは、それが偶然以上ものであるか如き錯覚に、その種の人達を陥らせがちである。人類は、感覚というものが持つ危うさに気づいたからこそ、科学的な手法(論理実証主義)が持つ有用性にも気がついた。そしてこれは、(社会文化的)進化の歴史である。物事の本質を見誤らない為には、即ち、感覚に支配された知的原始人になり下がらない為には、常に客観的な視点- ”思う”を”分かる”とを履き違えない思慮深さ -を持つ事が重要である。

【空気が読めない】

 ある集団に於ける人間の行動パターンは、次の様に分類する事ができる。

① 周囲の人間の感情が読み取れ(可能)、それに合わせようとする(肯定)。
② 周囲の人間の感情は読み取れる(可能)が、それに合わせようとはしない(否定)。
③ 周囲の人間の感情は読み取れない(不可能)が、それに合わせようとはする(肯定)。
④ 周囲の人間の感情が読み取れず(不可能)、それに合わせようともしない(否定)。

 本来ならば、”可能”を表す”空気が読める”を①②、”不可能”を表す”空気が読めない”を③④と解釈しなければならないが、実際には②までをも含め、”空気が読めない”という言葉で言い表されている。つまり、この言葉の適用範囲は、”周囲に合わせていない”という状況全般である。
 ところで、”空気が読めない”というのは、言うまでもなくネガティブなイメージの強い言葉である。つまり、この言葉は多くの場合、非難する意味合いを込めて使われる訳だが、実際に使われているシーンを思い返してみると、②のタイプの人間…即ち、この非難が最も当てはまらない人間に対し使われるケースが、大半である様に思われる。つまり、この言葉は多くの場合、”事実の指摘”というよりは、周囲に合わせようとしない人間に対し、攻撃を加える事を目的として使われる。
 日本人は、周囲に合わせない人間を”我儘”な人間と見做す傾向が強いが、本来的な意味で我儘なのは、気に入らないからという(極めて身勝手な)理由で、他者を自身の気に入る様に矯正させようとする人間の方である。”空気が読めない”…この言葉の使用頻度の高さは、日本人に我儘な人間が多いという事実を、如実に物語っていると言えよう。

【ご理解、頂けましたでしょうか?】

 業者などが、主に社の方針を押し付ける際に使う言葉。「理解したか?」という問いかけに対し異を唱えると、言われた方が、”理解していない”、即ち、”適切な回答を得ているのに、それが認識できていない”という事になり、言われている方に非がある事になる。これは、(社の方針に過ぎないのだから)本来ならば、”同意したか否か”、若しくは、”納得したか否か”と問うべき所を、”理解している or していない”という、どちらに転んでも業者側に有利な択一問題にすり替えられたものである(※02)。

【綺麗に利用して頂き、ありがとう御座います】

 ここ数年、公共のトイレなどで見かける様になった。”みんな、綺麗に使っていますよ。だから、あなたも綺麗に使いましょうね”…言わんとしているのは、そういう事なのであるが、これは、読み手に対する”みんながやっていると言えば、それに従うだろう””集団心理に、弱いだろう”という思い込みが前提としてある訳だから、ある意味で読み手を馬鹿にしている。怒っても良いのでは?…と思う。

※01:これは、戦前の日本に於いて、思想的犯罪(者)に対し適用されていた言葉であり、民主主義体制下に於いては、そもそも思想的犯罪(者)というもの自体が存在しないが、ここ数年の傾向として、悪いという認識の上に行われる行為、若しくは、その行為者を表す言葉として定着している為、ここでも、その意味で使用した。
※02:この様に、相手に意識される事なく選択肢を狭める事により、相手の意図しない発言を引き出すべく為される問いかけの事を、”誘導尋問”と言う。