不思議な話・後記

 本ウェブサイトに、”不思議な話”をアップした直後、とある人物からメールを頂いた。その概要は、あなたは科学的な思考力を持った、極めて知能の高い人間であるにも関わらず、オカルトを擁護するのか?…というものであった。どういった立場から発言しているのかが、全く分からない。立場を明確にしろ…と。しかしながら、このウェブサイトでも再三に渡り申し上げている通り、私はオカルトを擁護している訳ではないばかりか、寧ろオカルトの信奉者に対しては、軽蔑の念すら抱いている。ならば、何故に…と思われる方もいるだろう。それに対する私の回答としては、私は科学的な思考をする…即ち、本当の意味で”科学的な”人間なのであって、科学の信者ではない…というものが、恐らくは最も適切である様に思われる。

 本ウェブサイト記事、”科学的であるとは、どういう事か?”でも指摘している通り、科学の本質は”客観性”と”論理性”である。形而上的概念を廃し徹底された、論理実証主義である。これは、その対象が限定されない事を意味し、その事は近年、文系分野に於いても”社会科学””人文科学”等、”科学”の名称が用いられている事からも伺える。
 こういったケースを、考えて頂きたい。サイコロを6万回投げるとする。普通に考えれば、一つの目が出る確率は6分の1(※01)であるから、一の目が出る回数は、1万回に近い数値になるはずである。ところが、実際には1の目が3万回出たとしよう。この場合、二通りの解釈が可能である。

① 偶然に、1の目が多く出た。
② おのおの目が出る確率が、6分の1であるという前提が、そもそも間違っている。

 どちらの方がより”論理的”か?即ち、どちらの方がより”科学的”なのか?…答えは明白であろう。ある事柄に対し仮説を立て、それが得られたデータと矛盾する場合、そして、それを偶発的要因として片付けるのが難しい場合、それは、仮説に誤りが生じている可能性を示唆している。論理の初歩である。
 私は、私が経験した様々な出来事についても、同様に考える。例えば、当該記事の”① ドッペルゲンガー”について言えば、私の母が幻聴を聞いたか、若しくは、何らかの勘違いをしていて、丁度良いタイミングで犬も鳴いた…という可能性もない訳ではないし、また、私も、その可能性は否定しない。しかしながら、この説明は、その時以外にそんな経験などした事のない母が、私が人生最大の事故を起こす直前にのみ、そういった経験をした理由の説明にはなっていない。同じ事は、他のものについても、言えるのではないか?また、そういった不合理な点から目を背け、飽くまでも科学的に実証された事実を以て解決とするその姿勢は、本当の意味で科学的であると言えるだろうか?それは、認知的不協和により理性を欠いた…即ち、”信じたいから信じる”、若しくは、”信じたくないから信じない”愚かなオカルト信者達と、何ら変わらないのではないだろうか?
 勘違いされては困るので、これだけは言っておく。オカルト信者達は、概ね、貧弱な自説を強化する事よりも、彼等に批判的な人々を攻撃する事の方に熱心だが、本ウェブサイト記事、”詭弁”でも言及している通り、自身の主張の正しさは、それ自体が証明される事によってのみ示し得るものであり、自説への批判の回避や、対峙する者への批判は、その代償とはなり得ない(※02)。科学は現時点に於いて、全てを説明し尽くしてはいない…それは事実だろう。一方で、オカルト信者達の主張は、お話にならないレベルの絵空事- 貧弱な根拠と、稚拙な論理構成の集積 -でしかないというもの、また事実である。

 現状、科学で分かっている範囲で説明をしようと試みれば、合理的な疑いが残る。ならば、私は断定せず、現段階に於いて説明できない、何らかの要因がそこに存在する可能性を認めようと思う。なぜなら、それこそが- どこまでも論理的である事ことが- 真摯に科学と向かい合うという事であると、私は信ずるからである。合理的な疑いは残るが、容疑者が一人だから、そいつが犯人だ…などという主張は、論理的に破綻している。真犯人は別に存在するが、その人物が容疑者として捜査線上に上っていない可能性が顧みられなければ、それは冤罪事件に繋がる。

※01:厳密に言うと、これは目が掘られていない場合の話であり、目が掘られると、各面付近の体積に変動が生じ、同時に質量にも誤差が生じるから、その分だけ重心の位置が移動する。尚、目を全て掘った場合、重心の位置は、2の目が掘られた面に最も近くなるから、その反対側の面、即ち、5の目が掘られた面が上を向いた状態で止まる(5の目が出る)確率が、最も高くなる。
※02:少しでも科学的アプローチが上手く行かなければ、その事実を以て神や霊魂の存在が証明されたかの如く騒ぎ立てる…こういうのを、馬鹿と言う