伝統・文化という欺瞞

 以前、モンゴル勢優勢の角界で日本人が勢いを取り戻すには、どうすれば良いか?…という議題を、知人に投げかけられた事がある。まあ、私としては特段、この事態を憂慮している訳ではないし、更に言うならば、”日本人だから””モンゴル人だから”という見方をしている事の方が寧ろ、憂うべき事の様に思うのだが、その時は多少、時間を持て余していたので、取り敢えずはその議題で応じてみる事にした。
 もっとも、この問題を読み解くのは、そう難しい事ではない。相撲は日本の国技だが、競技そのものに対する人気は、それほど高い訳ではない。いや、観戦する方は良い。しかし、本気で力士になろうという人間となると、これはかなり限られて来るであろうし、他のプロスポーツでも通用する程に身体能力の高い人間が、敢えて相撲を選ぶとも思えない。一方、モンゴルでは、相撲(ブフ)は花形競技である。当然、競技人口は多くなるし、また広く知られている競技そのものも少ないので、身体能力の高い人材を他の種目に取られるリスクは、日本よりも断然低くなる。つまり、かかる問題の最大の要因は、人材の質の違いである。
 では、肝心の”どうすれば良いか?”といった辺りなのだが、人材の質の低さが問題の本質であるならば、質の高い人材が集まる様に- 即ち、魅力的な競技となる様に -工夫すれば良い。まず、どこかの相撲部屋に弟子として所属しなければならないという、閉鎖的な徒弟制度を廃止し、実力さえあれば力士になれる様な制度を敷く。次に、バカ食いさせ太らせるなどといった愚かな慣例は捨てて、主に筋肉で体を作らせる様にし、競技そのもののスピードと技能を向上させる(※)。廻しや髷といった珍妙な格好を強要する事はやめ、ビジュアルに関しては、競技に影響が出ない範囲で自由とする。また、ルールをシンプルにする事により自由度を高めれば、より奥の深い競技になり、面白みは増すだろう。こういう事を言うと、必ず”伝統が…””文化が…”などといった事を言い出す者が現れるが、もしそれに存続すべく十分な理由があるならば、放っておいても存続し続ける筈である。永らく守られてきたという、ただそれだけの理由で古いしきたりに固執するのは、手の施しようがなく、回復の見込みもない老人に延命措置を施すが如き愚行である。
 角界は、そのあり方に固執する余り、人材の質の低下を招いているのであるが、考えてみれば将棋の世界というのも、似た様な状況にある。将棋のプロになるには、プロ養成機関である奨励会に入会し、勝ち上がって行かなければならないが、これには年齢制限があり、満21歳の誕生日までに初段、満26歳(勝ち越しが続けば、満29歳)の誕生日を迎える三段リーグ終了までに四段に昇段できなければ、自動的に退会となってしまう。つまり、その後の人生を大きく左右する若い一時期の大半を将棋に捧げる事なしに、プロ棋士になるのは難しく、この事が競争倍率を大幅に下げる大きな要因となっている。
 もしこれを、年齢・経歴等関係なく、実力のみを評価しプロになれる制度に変えたら、どうなるだろうか?例えば、難関大学に籍を置く、若しくは籍を置いた事のある優秀な頭脳の持ち主達の中から、本気でプロ棋士を目指す者が少なからず現れるであろうし、また実際に数多くのプロ棋士が誕生するだろう。そうすれば、今まで将棋会では滅多にお目にかかれなかった様な優秀な人材がどんどん流入して行き、今あるプロ棋士の面子は、大幅に入れ替わる筈である。正直、奨励会制度を擁護する人々の主張の中に、十分な合理性を伴ったものは見当たらない。日本将棋連盟の面子- プロ棋士の方々 -は、優秀な人材に押され、自分達の居場所が無くなる事を恐れて、不合理な制度に固執しているのではないか?…私には、そう思えてならない。

 日本人には、合理的思考力の欠如している人間が多いが、不合理な主張の裏には大概、ドス黒い感情が蠢いている。本当の正義は、洗練された知性の上にしか成り立たない…この事実を理解している日本人が、どの程度いるのだろうか?思えば、恐ろしい国に生まれたものである。

※:スピードが向上すれば、動きが増え複雑化するから、それに伴う形で技能面も充実して行く。また、実力次第で力士になれる様な制度を敷き、意味のない制約を課そうとさえしなければ、純粋に競技としての合理性が追求されるから、必然的にこういった流れになって行く筈である。