民主主義

 根強い人気を博しているドラマに、”3年B組 金八先生”というものがある。私はそもそも、フィクション物は余り見ないのだが、それでも、このドラマは何度か見た事がある。クラスで問題が起こる。それに対し、武田鉄矢扮する金八先生がクラス全員に向かい、諭す様に呼びかける。すると、クラスの誰かがそれに共鳴し、次第にクラス全体が巻き込まれて行き、最後はクラスの全員が同じ方向を向く。私は見ていて、気分が悪くなった。くだらない。
 ”Dead Poets Society(邦題:いまを生きる)”という、アメリカの映画がある。公開当初は、かなりの人気を博していたので、ご覧になられた方も多いだろう。バーモント州のとある名門進学校に、同校OBのキーティングが教師として赴任する。少し風変わりなこの先生に、当初は面食らった生徒達も次第に惹かれて行く。しかし、ある事件(生徒の自殺)が発端となり、キーティングは辞職に追い込まれる。学校を後にする最後の日、キーティングは忘れ物を取りに教室に顔を出す。その教室では、かつての教え子たちが授業を受けているが、その授業を担当している校長のキーティングに対する冷たい仕打ちを目の当りにし、最初キーティングを無視する。しかし、生徒の一人が机の上に立ち上がり、”O Captain! My captain!(ウォルト・ホイットマンの詩の一部)”と口ずさむ事により、彼に親愛の情を示す(何故、これが”親愛の情を示した”事になるのかについては、実際の映画をご覧頂きたい)。すると、それまで耐えていた他の生徒も、校長の制止も聞かず、次々と机の上に立ち上がる。
 これが、そのシーンである。ご覧頂きたい。


 何か、お気づきだろうか?もし、これが日本の映画であれば、おそらく全員が机の上に立ち、クラス一丸となってキーティングを送り出し、めでたしめでたし…といった、安っぽい話になっていたに違いない。ところが、この映画では、座っている生徒も多数存在する。私は、これを見た時、これがアメリカなのだなと、改めて実感した。人は、違って当たり前。価値観の違いというのは、相対的なものであって、断じて優劣のあるものではない。だから、それらは同様に許容されるべき…考え方が知的・理性的であり、懐も深い。一方で、日本はどうだろうか?何が何でも、自分の価値観が正しい。だから、皆は、それに合わせるべき。従わなければ、村八分…アメリカと日本の違いとは、まさしく洗練された大人と子供の違いである。

 民主主義の最も根源的な理念は、おのおの個人の自由と平等である。しかしながら、その自由には、時として、他者の権利を侵害するもの(例えば、”人を殺す自由”は、同時に殺される人間の”生存する権利”を奪う事になる)もあり、それを認める事は、”平等”の理念に反する。つまり、民主主義国家に於ける自由とは、”他者の権利を、一方的に侵害しない範囲”で、”最大限”認められなければならず、それを実現する社会の根源的なあり方までをも含めたもの…それが、”民主主義”の諸理念なのである。
 こう言えば、その実現は簡単そうに聞こえるのだろうか?しかし、考えてみて欲しい。民主主義を実現するためには、個々の価値観に依存した独り善がりな考え方ではなく、客観的な立場に立ち、論理的に考察する…即ち、本当の意味での知性が必要となる。また、人間というものは、自身と異なる価値観に対しては不快感を覚えるものだが、それを理性で抑える…即ち、寛容の精神も必要となるだろう。つまり、民主主義とは、最も忌むべき所が少ない反面、最も優れた知性と人間性とを要求される社会体制なのである。
 そう考えれば、日本に民主主義が定着しない理由も見えて来る。まず、第一に、日本人には論理的思考が出来ない人間が、余りにも多い(これは、日本人のみならず、非白色人種全般に渡る特徴である)。第二に、日本人には、自身の価値観を他者に押けたがる、我儘放題の”お子さま”が異常に多い。中身の伴わないままに、分不相応な理念だけを取り入れた結果…それが、今の形だけの民主主義国家、日本を形成しているのである。
 では、日本が本当の意味での民主主義国家になるには、どうすれば良いのだろうか?日本人の多くが、西欧諸国並みの知性を身に着け、一億総子供社会から洗練された大人の社会へと脱却するしかない。しかし、それは可能だろうか?無論、個人のレベルで西欧諸国の優れた人間と同等か、もしくは、それを上回る人間が出現するという事は起こり得るし、また実際、出現してもいる。しかしながら、これは恐らく民族が抱える遺伝的な問題であるから、集団としての日本人が西欧諸国に肩を並べる可能性は、極めて低いものと思われる。