祖母

 先日、久し振りに夢を見た。大分県にある私の実家の台所のテーブルに私が座っており、それに対座する形で、私の父方の祖母が座っている。その台所には、庭に繋がる大きな窓があり、その窓の向こうには私の家の塀と、比較的大きな数本の木が見える。祖母は時折それを視線で指しながら、木にはオスとメスがあるのだと語っている。全く同じシュチエーションで、全く同じ話を、私は中学生の頃に聞いた。その同じ話をしている祖母の呼びかけに時折相槌を打ちながら、私はただただ黙って、その話に聞き入っている。

 私の父方の祖父は、大分県の生まれである。警察官になる為、当時日本領だった台湾に単身渡り任官試験を受けるのだが、当時の水準からしても身長の低過ぎた祖父は、警察官の欠格条項に引っ掛かってしまい、それが理由で落とされてしまう。しかし祖父は、その一途さから何度も任官試験に挑み、結局最後には警察官に任官されている。
 その在職中、祖父はある実業家と知り合う。祖父に好感を覚えたその実業家は、自分の娘を是非にと祖父に勧め、祖父はその娘と結婚する。言うまでもなく、その実業家の娘こそが私の祖母である。
 祖母は女だてらにやんちゃな性格で、幼少期はガキ大将だったらしいが、富裕層の生まれであった事もあり、当時としては珍しく女学校を出ている。しかし、私の知る限り、祖母の雰囲気はインテリのそれではない。ただ、本は比較的よく読む方であり、歴史小説…中でもとりわけ、徳川家康が好きだった。また、かなりの相撲好きで、よく相撲を観ていたが、千代の富士だけは毛嫌いしていた。その理由は、私にもよく分からないが、千代の富士がもう少し弱ければ、あそこまで毛嫌いする事もなかっただろうと思う。
 その祖父母が結婚した際、祖母の実家からは多額の持参金が拠出された。愈々末期という段に差し掛かっていた大日本帝国の警察官の待遇がそれ程手厚い筈もなく、恐らくはそれが財産と呼び得るものの全てか、或いは殆どだったであろうと思われるが、私の祖父はその財産を、台湾の貧しい人々に分け与えた。
 日本は終戦を迎え、蒋介石率いる國民党軍は、それまで台湾に於いて日本人が築き上げて来た財産に対し、搾取の限りを尽くした。恐らくは私の血縁も、その例外ではなかったであろうと思われるが、実を言うと私は、その頃の事について殆ど聞かされていない。語るべきものが何も無かったのか、或いは意図して何も語らなかったのか、それは私にも分からない。ただ、私が聞かされているのは、”終戦と同時に、台湾から引き上げた”という事実のみである。
 台湾から引き上げる際、私の祖父母が次の居住地として選んだのは、祖母方の実家のある鹿児島ではなく、祖父方の実家のある大分…それも、祖父の生まれた部落からそう遠くない所だった。つまり祖父は、故郷に舞い戻ったのあるが、そこでの生活は決して楽ではなく、生活して行けないからという理由で、あれだけ苦労して掴んだ警察官という地位をあっさりと捨て、漁師として生きる道を選んだ。祖父の実家のある村は漁村であるから、この選択は祖父にとって自然なものだったのかも知れないが、十分な収入が確保出来ないという点に於いては、警察官も漁師もそう大差ある訳ではない。祖父母と、末っ子である私の父を含む7人の兄弟達にとって共通にして最大の敵は、常に貧しさであった。
 祖母は資産家の娘として生まれ育ったが、成人してからは一転し、困窮した生活を余儀なくされた。富を失った者が最も辛さを感じるのは、”貧しい”という事実の方ではなく、”落ちぶれた”という実感の方だと言うが、祖母のきつい性格と険しい風貌は、その所為なのかも知れない。
 両親が末っ子という事もあり、私の一家は核家族であったが、両親が働いており、また私達兄弟が十分な年齢に達していなかった事から、祖母は一時期、私の家に住み込み、色々と手伝ってくれていた。冒頭の台所での会話はその頃の生活の断片であるが、その他にも祖母は色々と、私に教えてくれた。一度だけ、祖母は私に弟の話をしてくれた事がある。かなり変わった人物だったらしく、また風変わりなエピソードも幾つか持っている様だが、祖母が言うには、私がその弟に似ているという。その所為だろうか。はっきりと物を言う人であり、また私が問題児だったにも関わらず、祖母が私に対し、意見や小言を言う様な事は殆どなかった。多分、遠慮していたのだろうと思う。
 そんな祖母が、たった一度だけ私に苦言を呈した事を、私はよく覚えている。私が中学三年生の時、知人といさかいになり、その彼が突然、私に殴りかかって来た。私は彼を、小学三年生の頃から知っており、また彼がその時分から、少林寺拳法を習い続けていた事も知っていた。手加減しようなどとは、思うべくもない。私は彼の最初の一撃をかわし、次の刹那、70㎏の握力を持つ拳の一撃を彼の顔面に加え、倒れて意識が朦朧としている彼の横腹に対し、数回に渡り蹴りを入れた。結果、私が想定していたよりも遥かに弱かった彼は救急車で病院に運ばれ、2週間程の入院生活を与儀なくされた。
 その日、私は家に戻ると、学校からの連絡により、既にその事を知っていた祖母に対し、向こうから吹っかけた喧嘩だと主張した。祖母は最初、何も言わなかったが、私の父も学生時代に喧嘩をした事があるのだろうと、某かの期待を込めて祖母に問うと、祖母は、「○○(私の父の名前)は、そんなんじゃなかったよ」とだけ答えた。”そんなん”とは何なのか、全く以て釈然としない。しかし、祖母が私に対し、目も合わせずに放ったその一言は、私が期待していたよりも遥かに素っ気なく、また鋭かった。
 私が高校生の時、その祖母の娘、つまり、父方の伯母が死んだ。44歳とまだ死ぬには若く、癌だった。祖母は元来、弱さを匂わせる感情など微塵も表さない人で、その叔母の葬式の時も、涙の一つも見せるでもなく、その大柄な体を少し斜めにし、黙って正座していた。セレモニーはどんどん進行して行くが、祖母はただ黙り、そして姿勢を微塵も崩さずに座っている。私は祖母らしいなと思い、いつも通りだなとも思った。
 葬儀も佳境に差し掛かり、葬儀屋は出棺の準備を始めた。親族は皆、棺に群がるが、祖母に動く気配はない。私が何気なく後方を見渡すと、生前人望の厚かった叔母の死を悼む人で、家の外はごったがえしている。凄い人数だなと波打つ群れを何気なく眺めていると、ざわめきに紛れ、何やら前方で鈍い音がした。畳の間に何か重いものを落とす、そんな音である。その音の鳴る前後から、何やら前方が騒がしい。おやと思い、私がその方向に視線を向けると、どうした事であろうか?祖母が棺の前に膝をつき、その手は棺の端にかかり、周囲の人は祖母に手をかけている。何事が起こっているのか、私は瞬時には分からなかったが、周囲の人の手が祖母を引き、その体がやや私の方に向いた刹那、私は全てを理解した。ただの一度として悲しみの表情など見せた事のなかった祖母が、棺にすがり、泣き崩れていたのである。
 もう出棺の時だからと親族がなだめているにも関わらず、決して棺から手を離そうとしない祖母を見て、私は呆然としていた。運び出される棺から決して目を離そうとせず、既に手の届かぬ所まで移動させられていた棺に手をかけようと虚空を掴む祖母の姿を、私はただただ黙って見つめていた。無論の事、祖母の心が悲しみで満たされていた事が、不思議だった訳ではない。ただ、頑ななまでに無表情を貫こうとしていた祖母という人物について、私は考えていた。霊柩車が鳴らす出発のクラクションを遠くに聞きながら、或いは祖母という人物の内面に潜む影を、それまで以上に深く感じ取っていたのかも知れない。

 煙突の先から空に薄れ行く祖母を見たのは、もう15年も前の事である。その直前、私がお見舞いに行った際には、意識があるにも関わらず、布団の上の一点だけを見つめ、私が何を話しかけても無言のままだった。ただ、私が言葉に詰まり、どうしたものかとあれこれ思案している内に、祖母は意外にも一言だけ、「来てくれて、ありがとう」と言ってくれた。しかし、脳腫瘍による痴呆が大分進んでいたから、どの程度、私という存在を認識していたのかは分からない。
 家の外にある大きな木を眺めながら、私はこの記事を書いている。もし今度、夢に祖母が現れたなら、是非とも聞いてみようと思う。あの木はオスなのか、それともメスなのか?…と。多分、中学生だった頃の私にしてくれたのと同じ様に、答えてくれるに違いない。