平和主義

 ”何を以て死とするか”というのは、それを倫理的問題― 何を以て死とする”べき”か ―として捉える限り、おそらくは永遠に結論の出ないテーマである。もっとも、言葉の定義の問題― その言語の使い手たちによる認識の問題 ―として捉えるならば、然して複雑な問題とは思われない。例えば、意識に関わる― 脳を中心とした ―臓器のみを残し、それ以外の全てを工業的に補う― サイボーグの様な処置を施す ―ならば、その人物の人生は継続していると見做されるであろう。逆に、意識に関わる臓器のみを入れ替えたならば、そこにいるのは、一人の人間の死と引き換えに存在している他の誰かであると認識されるはずである。つまり、少なくとも現状としての死は、精神的継続性の終焉を以て迎えられるものと解釈するのが妥当である様に思われる。
 では、国としての死とは、一体何であろうか?もし、一個の人間と区別して考えるべき合理的理由がないのであれば、それは精神的継続性の終焉を以て定義されるべきである。では、”国の精神”とは…と考えてみると、個の精神がインプットとアウトプットを繰り返す中で変遷を遂げて行く存在である事に鑑みれば、やはり文化であろうか。確かに、日本の歴史を原始― 文化が成立する前 ―の時代にまで遡って考えるのは違和感があるし、現代アメリカの先達にクレイジー・ホースやジェロニモ(※01)を加えるのには無理がある。
 ”文化の終焉”を以て”国の死”と捉えるならば、中国四千年の歴史というのは嘘だという事になる。何故なら、それは謂うならば異なる民族による覇権争いの歴史であり、”髪を切らねば首を切る(※02)”に代表される様な、異なる文化の押し付け合い― 古い文化の終焉と、新しい文化の台頭 ―の歴史だからである。一方、日本に於いては、覇権が争われる事はあっても、それは同じ(大和)民族や文化圏に属する者どうしの戦いであった。また、明治維新や大東亜戦争に於ける敗戦― GHQによる統制 ―にしてみても、古い文化が徹底的に駆逐されるには至らず、それらは主に従来ある文化との融合であった。つまり、国としての魂は他からの影響を受けつつも、消滅する― 国としての死を迎える ―事はなかった訳である。
 しかしながら、死を知らぬという事は、同時に死に対する恐怖を薄れさせるという側面も持っている。つまり、文化を駆逐された事がないという事実が、それに対する危機意識を鈍らせてしまうのである。度々議論になる、憲法第9条― 戦争の放棄に関わる条文 ―の擁護論者などは、まさにこれをこじらせた者たちと言えよう。彼らは、侵略に伴う様々な事態を把握し切れていないのだ。恐怖に打ち勝つのは勇気であるが、無知が故に自覚し得ぬ恐怖は偏に愚かである。

 地震の多い地域の建造物は、堅牢にする。氾濫する川の畔には、土手を築く。忌むべき事態に備える必要性に理解を示しておきながらにして、― 危険な国が近隣に存在しているにも関わらず ―軍隊や核兵器の保有に反対するでは、筋が通らないではないか。これらの反対論者たちに、私は言いたい。国が占拠され、家族や財産が奪われ、果ては一切の自由を失い、かの国の最高指導者を崇める事を強要される様な事態に陥っても尚、軍隊や核兵器を保有しなくて良かったと思えるのか?…と。放棄すべくは、無責任な平和主義の方であるという事実に、彼らは気付かなければならない。

※01:ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の指導者。
※02:17世紀ごろ、満州族は漢民族を支配下に置いた際、それらに彼らの文化である辮髪を強要した。