カルト信者

 先日、街中でとある女性に呼び止められた。話を聞くに、何やら宗教めいた事を言っている。無論の事、私はすぐに立ち去ったが、思い出した事があるので、ここに記しておこうと思う。尚、これは安易に楽な方に流され易い現代人に対する警鐘でもある。心当たりのある方には、心して読んでもらいたい。

 かなり昔の話になるが、仕事の関係で一時期、とある地方都市に滞在していた事がある。その際、とある人物と知り合いになったのだが、その彼が今度、一緒に食事にでも行こうと言う。まあ、一度くらいならと日時を決め、とある場所で落ち合ったのだが、その場所に行ってみると、彼以外にも二人の人物が待ち構えており、しかも車で移動するつもりらしく、何か様子がおかしい。
 着いた先は、とあるファミレスだった。広い店内の中くらいの席に私を含む4人が着席し、オーダーをウェイトレスに告げた後、程なくして私の前に着席した二人の見知らぬ人物の内の一人が、私に語りかけて来た。

「唐突ですが…あなたにとって、生まれて来た意味は何ですか?」

 大方の見当はついていたが、この時点ではっきりした。これは、宗教の勧誘である。そして、この場所に土地鑑のない(※01)私を連れ、わざわざ遠方のファミレスを選んだのは、私を帰れない状況下に置くため、つまり、ある種の軟禁状態を作り出す為である。
 この馬鹿どもは、私を騙そうというのか?こいつら如き下らぬ存在が、この私を?ならば、相応の天誅を加えるまで…そんな事を考えていると、先の言葉を語りかけて来た人物が再度、私に語りかけて来た。

「この質問は、やや意地の悪い質問だったと思うのですが…」

 その様子が、如何にも得意気であったので、私はその言葉を遮り、次の様に述べた。

「意味とは?」

 彼は一瞬、躊躇した後、次の様に答えた。

「いえ…ですので、生きる意味です」

 私は、彼が”意味”という言葉をどういった定義で用いているのかを明確にし、彼の主張内容- その思慮の浅さ -を明確にしようとしているのだが、彼は同じ言葉を繰り返しているだけで、何ら進展がない。馬鹿相手の議論というのは、本当に疲ればかりが溜まる、不毛な作業である。
 続けて、私は次の様に問うた。

「”意味”そのものに意義がなければ、それを追求する事は無意味です。そして、その”意義”を明確にするためには、まず”意味”そのものの定義が明確でなければならない。当然ですね?だから、聞いているのです。あなたにとって、”意味”とは何ですか?また、そう定義すべき理由は?」

 続けて、私はこう述べた。

「言っておきますが、私が求めているのは、あなたの主張が単なるあなたの妄想ではないという確証、即ち、論証です。分かりますね?ですので、客観的事実に基づき、論理的に説明して下さい。間違っても、キリスト教徒の様に、自身の主張の根拠を聖書に求める様な、そんな愚かな真似はしないで下さい。聖書は、単なる妄想の羅列であり、”客観的事実”ではありません。そして、正しい前提に基づかない主張は空理・空論でしかありませんから、寸分の価値もありません」

 さり気なく、宗教を信ずる者の愚かしさに触れる…つまり、先手を打った訳である。すると、彼は”自分たちの道場に来れば分かる”と言う。これは、カルト信者の常套手段である。”来れば分かる””学べば分かる”…そして、それを批判したり、その根拠の希薄さを指摘したりすれば、”あなたは、まだ分かっていない”…言葉でごまかし通しさえすれば良いという彼らの発想は、如何にも軽薄である。

「もう一つ、言っておきましょう」

 宗教色を匂わせ始めた彼に対し、私は続けた。

「”長く触れている内に、正しいと思える様になって来た”…というのは、分かっている内には入りませんよ。”嘘も、100回吐けば本当になる”とは、ナチス宣伝相、ヨーゼフ・ゲッペルスの言葉ですが、確かに人間には、そういった性質が備わっています。しかし、それはしょせん錯覚です。”分かる”とは、論理構造が明確に把握できている状態を指し、それ以外は全て”思う”です。ここまでは、大丈夫ですか?そして、”分かっている”ならば、論理的に説明できる…哲学者ウィトゲンシュタインも言っている通り、”語り得るものは、明晰に語り得る”のです」

 悉く先回りされてしまうので、彼としても困惑した事だろう。続けて、私は言った。

「お前ら、カルト信者やな。俺を騙した以上、ただでは帰さへんぞ」

 声のトーンが急に変わった(※02)ので、その場にいた三人は驚き、一斉に私の顔を見た。私は、さっきまで私に語りかけていた人物に視線で返事を促す。彼の返事はこうだった。

「…今日び、宗教だなんて言ったら、誰もついて来ませんよ」

 こいつら、どこまで身勝手なんだ(※03)?私は、怒りで顔色が変わっていたと思う。

 ”戦場の友は、一生の友”と言う。戦場では、常に命の危険に晒されるため、心理状態が極めて不安定になる。そして、不安は親和欲求を増幅させるから、それが固い結束を生むのである。
 教義は様々であるにも関わらず、全ての宗教には共通する際立った特徴がある。”それを信じる者のリセット願望- 現実社会からの逃避願望 -を満たすべく、何らかの設定が為されている”というのがそれである。それは、終末思想であったり、死後の世界であったりと形態は様々だが、現実社会に生ける我々に尋常ならぬレベルのパラダイムシフトを要求する何らかの異変が生じ、彼らか、もしくは、彼らの様な者にとって”のみ”都合の良い世界が約束されているという点に於いて、完全に一致している。無論の事、この身勝手極まる妄想には何ら根拠がなく、その事実は彼らに強い不安をもたらす。そしてそれは、先に挙げた”戦場の友”の例よろしく強い親和欲求を生じさせ、それが積極的な布教活動- より多くの仲間の獲得 -へと彼らを駆り立てるのである。
 しかし、こういった活動が(本当の意味での)彼らの救いになっているかというと、それは違う。何故なら、どんなに彼らの主張を擁護し、肯定する人間の数を増やしてみた所で、彼らの主張に根拠がないという現実は、何も変わらないからである。そして、決して満たされる事のない彼らは、賽の河原に石を積み上げるが如く布教活動- 一時しのぎの現実逃避 -に勤しむ。キリスト教徒を何人集めた所で、それが聖書の持つ真実性の証明に替わる事など決してない- 自分に嘘を吐く事は、総じて困難である -のだが、それと同じ類の愚を、彼らは延々と繰り返し続けるのである。
 彼らは、”人類の救済””ボランティア”などと称し布教活動を行う。しかし、その実は彼ら自身の救済に他ならず、それは至って利己的なものである。更に言うと、彼らは”人類を救済する”と称し、妄想に逃げ込む事しかできない、彼らの様な廃人を増殖させ続けている。本当の救いは、現実と真摯に向き合い、前向きな努力をする事によってしか得られない。嘘で塗り固められた偶像- 非建設的な努力の賜物 -が、輝かしい未来を約束する事など、決してないのである。

 私は、彼らを前に、上に述べた様な事を滔々と説いた上でこう言った。

「君たちはね…結局の所、オウム(真理教)の連中と同じなんだよ。現実から逃れ、目的の為なら反社会的行為をも厭わないマキャヴェリスト。分かる?」

 ここで、面白い事が起こった。見知らぬ二人の人物の内、私に語りかけていた方の人物(私の前に座っている人物)が、”我々は、テロ集団ではない”と反論したのに対し、もう一人の人物が、”私には、伊賀上さんの言っている事が分かる”と言い出したのである。私は、隙かさず私の前に座っている人物に向かい、次の様に言った。

「君、今の彼の発言の真意が分かるか?”この馬鹿と、同一視されたくない”…そう思っているんだよ。分かるか?」

 彼らの薄っぺらい結束- 馴れ合いを求め合う関係 -に亀裂を入れた所で、私は私を自宅まで送る様、彼らに要求した。こんな土地鑑のない所では、一人で帰る事すらも儘ならない。すると、彼らはそれを拒否した- これは、予想通りである -ので、私は店の人物に向かい、店中に響く声でこう告げた。

「すみません、警察を呼んで下さい。被疑者は三名、罪名は逮捕・監禁罪です。大至急、呼んで下さい」

 程なくして警察は到着し、我々四名は警察署の取調室で個別に事情を聞かれた。ちなみに、監禁罪の構成要件は、”一定の場所からの脱出を不可能、若しくは、著しく困難にして移動の自由を奪う事”であり、この事例では満たしている可能性が高いと言える。私は、告訴状を提出しないのと引き換えに、今後二度とこういった事を行わない旨の誓約書を書く事、及び、家族か職場上司かのいずれかとの面会させる事を三人に要求した。この要求は、思いの他すんなりと通った。と言うのも、見知らぬ人物の内の一人(私の前に座っていた人物ではない方)が実は弁護士で、ここは争わない方が良い旨、他の二人に助言したのである。

 ”信仰の自由”を殊更に主張する者の多くは、”他者の自由”を決して尊重しようとはしない。だからこそ、年端も行かない子供- 自身の権利を、自らの力で以て守る事が出来ない -を布教活動に連れ回したり、このケースの様に強引な勧誘に及んだりといった事が、平然と出来るのである。もっとも、”自分の気に入らない奴らは、みな死んでしまえ(地獄に堕ちろ)”などと本気で思っている連中だから、彼らに人権意識を求めるなどというのは、どだい無理な話なのだろう。彼らが望んでいるのは、”他者の権利を侵害する権利で”あり、それは本来、”横暴”と呼ばれるべき筋合いのものである。”自由”などという美しいものでは、決してない。
 思慮分別のない人間に必要なのは、教育- 教え、諭す事 -ではなく調教- 精神的・身体的苦痛を伴なう懲罰的手段を以て矯正する事 -である。彼らの様な行き過ぎた宗教活動に対する、法の整備- 厳罰を伴う -が望まれる。

※01:当時は、私がその地方都市に滞在し一週間ほどしか経過しておらず、私を食事に誘って来た人物は、その事実を知っていた。
※02:文面からは分からないかも知れないが、プライベートの私は、(特に、インフォーマルな場では)やや関西寄りに訛った喋り方をする。
※03:この一言で、自分の都合でしか物事を考えていない事が分かる。ちなみに、こういった発言は、サイコパスなどによく見られるものである。