民衆と政治家

 先日、”朝まで生テレビ”なる番組が地上波から撤退する旨の報道が為されていた。率直に言って、あの番組自体は― しかつめらしい体でこそあるが ―おのおのが底の浅い持論を展開しているだけのものであるから、然して有意義とは思われない。そもそも、私は議論というものは書面を以て為されるべきものだと考えているし、ましてや”(建設的な)議論の出来ない日本人”の代表格である田原総一朗が司会を務める以上、今後も発展する見込みはない。寧ろ、よくもあんなくだらない番組が今日まで持ち堪えたなというのが、私の率直な感想である。
 ああいった類の番組でしばしば交わされる経済論議なるものについて、思う事がある。私が高校生になったばかりの頃、日本はバブル経済の真っ盛りであった。ところが、私たちの世代が高校を卒業するまでの僅か三年の間に、日本経済は一気に冷え込んでしまった。よく、経済学者だのアナリストだのといった連中が日本の、或いは、世界の経済の見通しについて述べているが、私はああいった連中を一切信用していない。事実、あのバブル経済の真っ只中にあった時分、誰一人として30年以上もの長きに渡り続く国難― 平成の大不況 ―を指摘し得なかったではないか。そもそも、彼らが言う程に経済が見通せるのであれば、世界の長者番付の上位は彼らによって独占されていなければならないはずである。
 しかしながら、その有意性の乏しさを完全に彼らの能力の問題として捉えるのは、いささか乱暴すぎる様に思える。例えば、天気予報を例に考えてみよう。天気を決定する根本にあるのは、幾つかの物理法則― 究極的には力学 ―であり、それらは同じ条件下では常に同じ動きを見せる。また、それら変数の内の幾つかは無視し得る程に影響の小さいものであるから、理想空間に於ける議論もある程度は実用に耐え得る。しかしながら、これらミクロな視点から行われる考察は、個々の要素は単純だが、それら諸要素― これは膨大な数に上る ―が相互に及ぼす影響までをも含めて考えると非常に複雑であり、よって現実的には複雑系といったマクロな視点からの考察を必要とする。一方、経済に関わる諸現象に関して言えば、その根本にあるのは人間の心理といった、物理法則とは比較にならない程の曖昧さを孕んだものである。天気の予測ですら、簡単ではないのである。経済ならば、尚更であろう。
 では、その時々の為政者たちはどの様に経済を取り廻せば良いのだろうか?ナポレオン一世(ナポレオン・ボナパルト)は、戦争に於いて重要なのは、― 精緻な戦略ではなく ―臨機応変の対応力であると説いている。また、ビジネスを成功させる上で重要なのも、とにかくやってみた上でフィードバックを得ながら、徐々に成功の形に近づけて行く― PDCAを繰り返す ―事である。いずれも、”取り敢えずやってみて、駄目だったら別の手を考える”といった話であるから、一つの国家を動かす術としては、好い加減に思えるかも知れない。しかしながら、予測が困難なものに対する対処法としては、おそらくはこれが最も実用的である様に思われる。

 世の中を良くして行く上で必要なのは、”効果的と思われる政策を””どの程度の頻度で打ち出しているか”といった点に焦点を当てた、”加点法”的な考え方ではないだろうか?何か上手く行かない事がある度に責任を追及する、いわゆる”減点法”的な考え方では、”何もせぬがマシ”とばかりに無難に遣り過ごす政治家ばかりになるのも無理はなかろう。民主主義体制下に於ける政治家は、民衆を映し出す鏡なのである。その事を、忘れてはならない。