議論のあり方

 私は、議論は書面により行われるべきだと考えている。その理由の1つは、口頭での議論には事実上、時間的な制約があるという点である。厳正な議論の場- 参加者全員が知的生産というものを十分に心得ており、且つ十分な自制心を備えている環境 -により行われる議論ならば話は別であるが、通常の議論の場- これは、殆ど例外なく”議論の場”とは到底呼べない様な代物である -であれば、どんな主張であれ、一人の人間が数秒間も喋れば必ず誰かが割り込んで来る(※01)。つまり、口頭による議論の場では論理構造が極めて単純か、若しくは複雑であっても十分な省略が可能なもの(※02)、全く論理構造を持たぬもの(※03)以外を完全に主張する事は、事実上困難である。一方で、書面により主張が成される場合、それがどんなに尺を必要とするものであっても完全に主張する事が出来る。つまり、書面による議論の方が知的生産性という点で優れており、これは議論の本旨に沿っているから、口頭よりも書面の方が議論のあり方としては適切なのである。
 2つ目の理由は、書面により行われる議論の方が詭弁に対処しやすいという点である。議論の場に於いて詭弁を弄するというのは、スポーツ競技に例えるならば、プレイヤーが自分に有利な様にルールを策定したり、その解釈を捻じ曲げたりしている様なものである。(本来的な意味での)議論の場に於いては、正しく論理が運用されている事こそが絶対のルールであり、詭弁を弄する者は、この議論を議論たらしめるルールを破っている。詭弁を弄する- 関係のありそうな理由を、曖昧に(※04)引っ付ける -事は、実に容易い。しかし、それを反証するには、どこに問題があるのか- 言葉の定義か、根拠に対する解釈か、論理そのものか -を精緻に分析し、それを論証しなければならないから、考えるのに時間がかかり、また、それを論客に伝えるのにも時間がかかる。つまり、その場で即座に対応する事が難しいのである。一方、書面であれば十分な時間が確保できるから、この辺りの問題は生じない。また、相手が既に反証済のものを蒸し返して来た場合や、以前の主張と矛盾する主張をして来られた場合でも対処しやすいから、正しい主張をしている側にとって不利な事は何もない。よって、口頭よりも書面の方が、議論のあり方としては適切なのである。
 3つ目の理由は、書面での議論には非本質的な要素が入り込み難いという点である。口頭での議論では、諭す様な言い回しや呆れた様なしぐさをしてみせるといった演出の類や、怒ったり執拗に繰り返したり、情感たっぷりに語ったりといった相手や周囲の感情に揺さぶりをかける行為がよく見られる。そして、これらの行為は基本的に、主張そのものの内容の無さを取り繕ろわんがために行われるのである。よく、口頭では言えるが文章となると書けないという人がいるが、それは書面では取り繕う事が難しいからである。逆を言えば、そういった類の人たちは、それだけ先に挙げた様な取り繕い- 即ち、ごまかし -に頼っているという事である。尚、言うまでもない事だが、これらの”相手を煙に巻く”行為は知的生産性を削ぐ行為であり、議論の本旨に反する。よって、口頭による議論は書面によるそれと比べ、より適切ではないのである。

 裁判では口頭による陳述が基本(※05)であるが、実際のやり取りの大半は書面により行われている。これは、口頭よりも書面の方が議論に適しているからに他ならない。また、優れた学者には文章だと秀逸なものを書くのに、話すのはあまり得意でない人(アインシュタインなどは、その典型である)が多いと言うが、これなどは内容を伴う主張には口頭よりも書面の方が適しているからだろう。
 国会中継などを見ていると、その余りの内容のなさ- 前置きの長さにもだが -に驚かされる事があるが、政治家により交わされる議論を思い切って全て書面にすれば良いのではないだろうか?そうすれば、利口な議員と馬鹿な議員がより明確になるだろうし、それをネット上にでも公開すれば、誰もが好きな時に検証できる様になるのだが…。

※01:これは、TV討論などを見れば明らかだろう。
※02:主張する論理の根底を為すものが、自明な事柄(コモン・センス。本ウェブサイト記事、”建設的議論”参照)に基づき論理的に導き出された事実、及び、その事が広く社会的に認知されている場合、これに対する論証は不要である。尚、こういったものの代表例としては数学の定理や公式、科学理論等が挙げられるが、これら自体の是非が問われている場合は、(言うまでもなく)これらそのものを構成する論理に対し健全なる批判の目を向ける必要がある。尚、勘違いする人間が非常に多いので断っておくが、許容されるべくは論理の”省略”であり”飛躍”ではない。即ち、広く社会的に(正しいものと)認知されていたとしても、単なる価値観(”人を、殺すのは悪い事だ””愛国心を、持つべきだ”等)は論証された事実ではないので、これには含まない。
※03:単なる一個人の価値観や決め付けなどが、これに当たる。
※04:厳正にすれば墓穴を掘る(論理的欠落を露呈してしまう)事になるから、この”曖昧に”は詭弁家にとって生命線である。
※05:法律上は口頭による陳述が基本であり、その補助的なものとして書面による陳述が許されている。