英才児教育

 私は、問題児だった青少年期、神童だった最初の頃と、学習という行為そのものに興味を覚えた最後の頃を除く就学時期の大半を、極端なアンダー・アチーバー(※01)として過ごした。無論の事、これには特定の対象以外、全く興味を示さないというアスペルガー症候群特有の性質が大いに関わっているが、それでも、環境次第では、あの理不尽で退屈な時期を、有意義なものに変える事は出来ただろうと思う。私には、適切な本を読めば数分で理解できる事に、50分もかけなければならない理由が分からなかったし、自分よりも遥かに稚拙で不格好な文章しか書けない人間に、日本語を教わらなければならない理由も分からなかった。私は常に、不合理な慣例に従う事を求められ、自分よりも遥かに知的な程度が低く、精神的にも低俗な人間ばかりの環境に馴染む事を求められた。教師たちは、それを”社会性”と表現した。しかし、私には、少数者のみに課せられる忍耐こそが社会性だという彼らの解釈が間違っている事が分かっていたし、社会性の本質が寛容の精神であるという事も理解していた。私の周囲には、私に何かを教える資格のある者など一人としていなかった。私は、興味を失った学校に背を向け、学校や、それに関わるもの全てと向き合う事を拒絶した。また、当時の私にとって、それらに関わる事は敗北であり、自分の自由になる時間や、本来であれば自由にならない筈の時間― 時間という波に押し流されて来る、退屈という名の冷水に身を投じなければならない、授業という名の滝修行 ―の大半を思索や白昼夢に費やす事はしたが、教科書や参考書の類には一切触れなかった。つまり、私は、就学時期の大半を費やし、反学校教育を修めたのである。
 先に私は、”環境次第では、あの理不尽で退屈な時期を、有意義なものに変える事は出来た”と言った。私が甚だ疑問に思うのは、知的障害児を通常児とを分け隔てる必要性を認めない人間など一人としていないにも関わらず、英才児(卓越した知的能力を持つ児童)と通常児を分け隔てる必要性に関しては、難色を示す者が多いという事である。曰く、スキームが出来上がっていない。しかし、必要とあらば不完全であっても、可能な限り準備を進めた上で始め、徐々に理想に近付けて行くべきだろう。曰く、学力にばかり目が行くと、人格形成が儘ならなくなる。しかし、そもそも”人格形成”とは何を以て理想とし、それは如何にして実現されて行くべきものなのだろうか?(※02)
 英才児は一般に、陳腐な授業には退屈するし、知的拙劣さに対する耐性も、決して強くはない。例えば、誰かと対峙した時、明らかに自分の方が正しく、それが相手との知的格差により生じている事が明らかだった場合― その者が、簡単な理屈の一つも満足に理解できない様な、あからさまな愚か者であった場合 ―、英才児はその絶望的な状況に対し、強いストレスを覚えるだろう。また、周囲がそういった人間ばかりであれば、自分の居場所は何処にも無いと感ずる様になるし、その状況が長く続けば、厭世観さえも漂わせる様になってしまう。この状況が想像し難い通常人の方には、自分の周囲が知的障害者ばかりであるといった状況― 例えは悪いし、極端かも知れないが ―を想像して頂ければ、理解して頂けるのではないかと思う。これには、誰しも、音を上げるのではないだろうか?仮に自分が、その状況に陥ったとしても、やはり、健常者の為の特別な環境など必要ないと心底思い続ける事が、果たして出来るだろうか?
 英才児、即ち、ギフテッドの為の教育環境は必要である(※03)。なるべく多くの英才児を、一つの場所に集める(相互に刺激し合える環境を作る為)。そこでは教員のみならず、全てのスタッフを、知能の高い人間のみで固める(※04)。おのおの児童の習熟度に応じ、相当高度な内容まで学習を進めて行く事が出来る様にする。また、優秀でさえあれば、例え10歳であっても大学生になれる様な仕組み― 年齢や関わった年数ではなく、習熟度により評価されるシステム ―を認める事も必要だろう。更には、一般に知能の高い集団になればなる程、アスペルガー症候群を始めとする、自閉症スペクトラムに属する人間の比率が高くなる(※05)から、この分野に詳しい専門家の配備も、必要になって来るはずである。
 英才児の判断基準だが、取り敢えずは言語性IQが人口上位1%未満(※06)か、若しくは学業成績が上位0.5%未満くらいで良いだろう(これについては、より適切な数値になる様、実務を積んで行く中で調整して行けば良い)。尚、IQの判断基準を全検査IQ(言語性IQと動作性IQを合わせたもの)ではなく言語性IQと敢えて限定したのは、抽象概念を素早く、高度な水準で理解する(※07)上で関係してくるのは、こちらの方であり、所属する社会との不適合を起こし易いのも、こちらの方だからである。また、学業成績が上位0.5%未満という条件も付け加えたのは、従来のIQテストでは適切に評価する事が出来ない英才児が存在する事を想定した上での、それらの可能性の芽を摘まない為の配慮である。
 今後、世界は今迄より一層、激しい競争社会になる事が予想されるし、物的資源がない以上、日本には人的資源を活かす他に、生き残る道はない。妬み・嫉みといった下劣な感情で、優秀な人間の足を引っ張る事に心血を注いでいる場合ではないのではないか?私は切に、そう思う。

※01:学業成績が、知的水準から期待されるよりも低い者。
※02:”人格形成”と称し為される事は、多くの場合、単なる多数派の価値観の押し付けである。そしてこれは、凡庸な人間にとって都合の良い人間に仕立て上げんとする卑劣な試みであり、断じて許されるものではない。尚、本来の教育のあり方については、本ウェブサイト記事”倫理教育”参照。
※03:アメリカでは、ギフテッドの10~20%はハイスクールを中途退学しており、フランスでは、ギフテッドの凡そ半数は学業的に失敗している。英才児教育が、日本よりも遥かに進んだ国ですら、そういった状況なのであるから、日本が如何に多くの英才児― 貴重な人的資源 ―の可能性の芽を潰し、不当な境遇を強いているかは、想像に難くないだろう。
※04:よく言われる事だが、際立った知能の持ち主を理解する事が出来るのは、際立った知能の持ち主だけである。例えば、私は幼少期、預けられた保育園にいる大人達から、知的障害のある子供と目されていた(指示通りに動こうとしない私を見て、指示が理解できないものと思い込んでいたらしい)し、私と意見交換をする中で、私が際立った知能の持ち主である事が分かるくらいの情報を引き出す事が出来たとしたならば、その人は少なくとも、数百人に一人といったレベルの知能は持ち合わせている筈である。凡人に、英才児を理解する事は出来ないし、英才児教育に於いては、この無理解― 一般の社会と、同じ環境 ―からの開放が重要となる。従って、英才児教育に於いて、この条件は必須となる。
※05:アメリカの”ギフテッド&タレンテッド プログラム”に参加する、即ち、英才児の為の特殊教育を受ける児童に於いても、アスペルガー症候群の比率が非常に高い事が知られている。尚、その比率の高さから、アスペルガー症候群とギフテッドを同義語と捉えている人がいるが、アスペルガー症候群の人間は、通常人よりも”全体に占める高知能者の割合が高い”のであって、”全員が高知能”という訳ではない(即ち、全員がギフテッドという訳ではない)という事には、留意しておく必要がある。
※06:英才児の中には、知能検査に不慣れな段階に於いて、出題者が期待しているものとは違う反応を示す者― 嘗て、私がそうだった ―が存在し、それらにいきなり知能検査を受けさせると、知的障害児と誤診される事になり兼ねない。従って、この検査は適切に行われる様、ある程度の慣れを生じさせた上で行われる必要がある。尚、この好例としては、数学者のアンリ・ポアンカレや、アメリカのジェイコブ・バーネット君(高IQという、アスペルガー症候群の特徴を色濃く持つ彼は、11歳で大学に入学したが、幼い頃に知能検査を受験した際は、知的障害児と診断された)を調べられたし。
※07:これは、少ない勉強量で学問などの知的技能を習得したり、それらを高度な水準まで高めたりといった事や、知的独創性との関わりが深い。