不思議な話

 今回は、今迄と少し趣向を変えて、私が今迄に体験した 、不思議な話をしようと思う。

① ドッペルゲンガー

 私は以前、大きな自動車事故をした事がある。スピードの出た状態で、前を走る自動車にほぼノーブレーキのままぶつかり、その衝撃は、ゆがみで車体の縦幅が変わる程の大きなもの(当然の事ながら、私の車は廃車)だったが、不思議と私には、命に関わる程の怪我はなかった。
 その事故が起こった直後、私は実家に電話し、事故の事を伝えたのだが、その際に私の母は、奇妙な事を言い出した。つい数時間前、私の声を実家で聞いたと言うのである。事の仔細は、こうであった。事故が起きる1時間ほど前、私の母が庭で作業をしていると、あの当時、実家で飼っていた犬の名前を呼ぶ私の声が聞こえた。その犬は私の声に、吠えて応えたという。私の声を聞いた母は、何故に突然、私が帰って来たのかと不思議に思ったが、後で聞いてみようと、私が姿を現すのを待っていた。ところが、いつまで待っても私は姿を現さず、声がした方向に行ってみても、私の姿は何処にも見当たらない。私の母は不吉な予感がし、心臓の鼓動が早まるのが自分で分かったという。
 ちょうどその頃、私は当時暮らしていたマンションで本を読んでいた。だから当然、実家にいるはずはない。それからおよそ2時間後、私の母は私から事故の連絡を受ける訳だが、その時の最初の印象は、”ああ、やっぱり”だったという。

② 正夢

 16歳の頃、私はある夢を見た。広い部屋がある。その部屋の一番奥には、何やらステージの様なものが見える。その部屋が何を目的としたものなのか、私には分からない。ただ、非常に鮮明な夢であり、その証拠に私は、今でもその光景をはっきりと思い出す事が出来る。
 その夢を見た半年ほど後であろうか、私は母と妹が写っている、とある施設で撮られた写真の一枚に、不思議な影が写り込んでいる事に気付いた。中央に向けられた強いスポットライトの中に、何やら人らしきものが見える。よく見ると、私にはそれが、私が小学校四年生の時に亡くなった父方の祖父である様に思われた。母にその事を指摘すると、母にもやはり、その様に見えるという。脳梗塞で亡くなった祖父。その祖父が頭に手を遣った姿が、確かにそこには写っている様に思われる。
 それから暫くの後、私はその施設に行く機会があった。そんな写真の事など、すっかり忘れていた私だったが、その写真が撮影された部屋に通されるや否や、私はあの写真との不思議な因縁に、思いを馳せずにはいられなかった。何故なら、写真では気付かなかった事…眼前に広がるその光景は、1年ほど前に夢で見た光景と同じものである様に、私には思われたからである。

③ 福沢諭吉旧居

 大分県中津市には、福沢諭吉が19歳までを過ごした家が保存されている。高校生の頃、私は家族と共にそこへ行き、福沢諭吉旧居を背景に写真を撮影したのだが、その時に撮影したパノラマ写真の一枚は、明らかに異常なものだった。まず手前には、光の筋が見える。その後ろ、旧福沢邸の土間の部分に、白い着物を来た女性の後姿が見える。そして、その福沢邸の廊下の薄暗い所には、何やら制服を来た、将校らしき人物が見える。手前には、幼女が口を開けて写っている。将校らしき人物は、私にしか分からないらしい。だが、確かに私には、それがはっきりと見える。

④ 防空壕

 私の実家の近くには、やたらと防空壕が掘られていた山があった。散歩が趣味だった私が、ある時、その側を通ると、どこからともなく声が聞こえて来る。時間は、明け方の3時頃だったと思う。おやと思い、耳をすましていると、その声は徐々に大きくなって来る。どうやら、女性の泣き声らしい。それにしても、どこか押し殺した様な、悲壮感の漂う声である。私は、その声の出処を探した。すると、どうやら私の少し後方にある防空壕の中らしい。何故、こんな時間に、防空壕の中に人が…と思い防空壕に向け歩き始めたが、私は直ぐに歩くのをやめた。何故なら、その防空壕の入り口は古びた鉄格子で覆われており、人が入り込む事など、到底不可能だったからである。

⑤ 実験

 不思議な実験を目の当たりにした事がある。ミルクの入ったコップが二つある。その片方に掌を向け、何やらエネルギーを送る(と、送っている本人は主張している)。その作業を一週間ほど続けると、エネルギーを送った方のミルクが、それ以外は条件の全く同じもう一つのミルクと比較し、明らかに腐敗の度合いが遅いのが確認できる。尚、その実験は複数回繰り返されたが、その全ての実験で、同じ現象が確認された。

 これだけは、断っておく。私は、神仏や霊魂、超能力といった類のオカルトを、支持するつもりは全くない。しかしながら、私もそれらの現象を目の当たりにしている以上、神秘体験を語る人間の一部には、事実を語っている人間がいる可能性は認めなければならないだろうと思っている(おそらく、大半は虚偽であろうが…)。また、それに対する解釈は、真に科学的に…即ち、”客観性”と”論理性”は堅持された形で、実現されなければならない。
 これらの現象は、いつかは科学的に- オカルト信者達が愚かにも信じ込んでいるのとは全く別の形で -解明されるだろう。しかし、それを実現するには、今の科学では力不足であると、私は感じている。科学の進歩が待たれる。