大相撲の報道について思う

 大相撲を巡る一連の報道を見ていて、以前に勤めていた会社(”昔、勤めていた会社”参照)を思い出した。既に書いた通り、私はこの会社の上層部の人間と戦い、理不尽な待遇を強いられるに至ったが、では、この会社の社長(当時)が常日頃から強権的な態度を見せていたのかと言うと、それは違う。むしろ、日頃の彼は、”意見は、どんどん受け入れる”というスタンスを取っていたし、また、事ある毎に”みんなで作り上げて行く会社”である事を強調してもいた。しかし、私の様に上の人間を批判する人間が現れれば、現実として何らかの報いを受ける。そして、そんな状況を幾度となく目にする内に、社内の人間は誰一人として(上層部の人間に)意見する事はなくなくなるのである。ちなみに、北朝鮮は法律上、信任投票により最高人民会議代議員を決める事になっている。つまり、不信任票が過半数を超え、金正恩が政権を失うという事も、制度上は有り得るのである。しかし、金正恩に不信任表を投じれば、その票を投じた人間は軍の関係者に連れて行かれ、二度と戻って来る事はない。だから、金正恩の信任票は、常に100%なのである。
 あの会社が、”北朝鮮体質”に染まって行った原因は、偏に社長の認識の甘さにある。彼は、確かに”正しい意見であれば、受け入れる”というスタンスを取っていた。しかし、この社長が従業員とぶつかり、自らが劣勢に立たされている姿をまでも想定していたかと言えば、それは違う。彼の頭の中には、最初は意見の食い違いがあっても、最終的には自分の意見を受け入れ追従する従業員の姿しかなかった。だから、現実にそうはならなかった時、彼は酷く狼狽した。自分の間違いや愚かしさを、自分よりも立場が下の人間から突き付けられる事に我慢ならない自分や、自分の気に入った意見しか受け入れる事のできない狭量な自分に、改めて気付かされたのある。つまり、彼が土壇場になって見せた卑劣さは、大した度量もなく、また覚悟もない人間が背伸びをした結果である。
 実は、大相撲でモンゴル勢を批判している輩も、この社長と同じ状況に陥っている。失礼な言い方になるかも知れないが、旭鷲山が角界で活躍していた頃、モンゴル勢はまだ”脇役”だった。また、日本人力士とモンゴル人力士との人材の質の差になど気付いていなかった(”伝統・文化という欺瞞”参照)から、”国籍に関わらず、実力があるなら認めれば良い”と、余裕を持って見ていられた。ところが、朝青龍が頭角を表し始めた頃から、彼らは自身の持つ認識の甘さに気づき始めた。ましてや、白鵬に至っては、名実ともに歴代最強の力士である(※01)。事態は、彼らにとって看過する訳には行かないものとなった。
 モンゴル出身の横綱を非難する言葉で代表的なものは、”横綱の品格に欠ける””勝ち方が横綱らしくない”といった辺りだろうか(※02)。ちなみに、この種の感覚に依存した主張- 即ち、その正しさを示す事を求められない主張 -は、”反論のための反論””批判のための批判”といった、初めに結論ありきの独り善がりな結論に持ち込みたがっている人間が、よく逃げの手段として用るものである(”建設的議論”参照)。非力な内は、さも懐が深いかの如く振る舞っておいて、いざ頭角を表して来ると見るや、途端に陰湿な誹謗・中傷に走り引きずり下ろそうとする。本当に品性下劣で、危急の改善を要するのは、寧ろこういった者たちの方ではないか。言っては悪いが、私は(外国人から)彼らと同じ”日本人”という括りで見られる事に、強い不快感を覚える。

 アメリカは多くの留学生を受け入れているが、その理由の一つは自国の学生を優秀な人間と触れさせる事により、刺激を与えるためである。己の非力さを自覚したとき、自らのレベルを引き上げる事により解決しようとするアメリカと、その(非力さを自覚させられた)対象を貶める事により解決しようとする日本。私は、この両国に力の差を通り越して、格の違いを感じる。

※01:相撲そのものの強さも然る事ながら、私は彼のどんな状況下に於いてもベストを尽くそうとする精神力の強さに感心する。他の力士たちにも、大いに見習ってもらいたいものである。
※02:この他にも、”駄目を押す(ほぼ勝ちが決まっているのに、手を抜かない)”といったものがあるが、これを言うならば”最後の最後まで手を抜かない、勝負に対する厳しい姿勢こそが横綱の品格だ”という主張も成立し得るはずである。もし、モンゴル出身の力士を非難している連中が、この私の価値観を蔑ろにするならば、私は彼らに対し「お前たちは一体、何様のつもりなんだ?」と言いたい。