理化学研究所の小保方晴子の論文捏造疑惑が、世間を騒がせている。これについて、少し触れておく。
まず、一つ言っておきたいのは、科学論文に於ける多少のインチキというのは、しばしば行われているという事である(※01)。ただし、誤解のない様に言っておくが、これは、― そういうケースも、稀に存在するが ―ある種の悪意を伴って行われる…という事ではない。そもそも、学術論文というのは、それが発表された直後から、世界中の学者の手によって追試…つまり、そこに書かれてある様な事が本当に起こり得るのか― 再現性があるのか ―が検証される。嘘の学説など発表しようものなら、その事実が遠からぬ未来に白日の下に晒される事は、火を見るよりも明らかであろう(※02)。科学は、宗教などとは違い、多くの不健全な批判精神の持ち主により支えられた、絶対的権威者…などというものは存在しない。その目的は、”現実逃避”ではなく、”本質の探求”であるから、そこで権威を持つのは、”客観的事実”と”論理”のみであり、人の弱さの琴線に触れる文言を並べ立て、たぶらかす、特定の人物ではないのである(また、その事実こそが、科学そのものの強大な権威を形成している)。
では、どういった場合に、その”多少のインチキ”は行われるのだろうか?最も多いケースは、次の様なものである。自身の学説の正しさに、絶対の自信― 精緻な検証を行った訳ではないが、恐らくそれが行われたとしても、自分の思い通りの結論が出るという確信 ―がある。そこで、学術誌に発表したいが、レフェリー(※03)の厳しい目に耐え得る程に十分な検証は、まだ為されていない。しかし、これをするには、膨大な時間と手間がかかる。ならば、十分な検証を行い、自分の学説を裏付ける結果が出た事にし、発表してしまえば良いのではないか?実際に検証を行ったとしても、自分の思い描いている通りになるだろうから、ここで手間ひまかける必要も無いだろう…おおむね、こんな所である。
もっとも、基本的には、ここまで確信がある学説ならば、正しい場合も多い。しかし、しょせんは”過信”であるから、間違っている場合も少なからずある。それが、学術的に注目度の低いものであれば、その学説が否定されるだけで済むのだが、今回のケースは、現在、最も注目されている分野の研究であり、また、山中氏のノーベル賞受賞から日が浅いという事も相俟って、注目度が高かった。思えば、小保方氏も悲運の人である。
科学の世界は、厳密である。しかし、その厳密さこそが、科学の権威― 人類が有する知的資産の中で最も強い ―を支えているのである。小保方氏は、断罪されねばなるまい。
※01:メンデルの法則で有名なグレゴール・ヨハン・メンデルの研究などは、余りにもメンデルの法則に当てはまり過ぎており、何らかの恣意的な操作が働いたのではないかと考えられている。尚、一応説明しておくと、当てはまり過ぎて不自然であるというのは、例えば、コインを投げて表が出る確率は1/2であるが、10万回投げたコインの表がちょうど5万回出るという事が、一度の試行で起こるなどといった事は、ほぼあり得ない…という意味での不自然さである。
※02:学説として定着するまでにかかる時間は、その学説の重要性や検証の難しさによりまちまちである。例えば、今回の小保方氏の様なケースであれば、学説の重要性は非常に高く、また検証も容易であるから、その学説が発表された直後から、当該分野を専門とする世界中の多くの学者が検証を始める(”追試”と言う)。結果、その学説に異を唱える有力な論文が発表されなければ、それは多くの学者が同じ検証を試み、小保方氏の論文に書かれてある通りの結果が出たという事であるから、学説として広く認められる事になる(残念ながら、そうはならなかった訳だが…)。また、この場合、僅かな期間で膨大な数の検証が為されるであろう事は明白なので、正しい学説として定着する(又は、否定される)までの期間は、比較的短くなる。
※03:その学術論文の独自性や有用性、及び、論理的な整合性等を審査する役割を担う者。Nature、Scienceを始めとする学術誌では、通常は無作為に選定された学者が、執筆者の分からない状態で審査を行う。