投稿者「伊賀上剛史」のアーカイブ

MENSA(メンサ)・追記④

 少し前の事であるが、”議論は好きですか?”という趣意不明瞭な質問メールが私の下に届いた。こういったウェブサイトを運営していると、よくそう思われるのであるが、実を言うと私は― 考えるのは好きだが ―議論はそう好きな方ではない。で、その旨を伝えると、今度は次の様なメールが帰って来た。

>それは嘘です。(中略)私は、新妻議長(当時。原文ママ)が運営していたメンサの掲示板で千人切りしていたあなたを見て、メンサに入会したのですから。

 この辺りの事は、本ウェブサイト記事”MENSA(メンサ)”に詳しいが、ここで言うメンサの掲示板とは、その日本支部― 今で言う”JAPAN MENSA” ―がまだ存在しなかった当時、JAPAN MENSA初代議長(会長)である新妻(当時)が運営していたウェブサイト(※01)に設置されていた掲示板の事である。ついでに言うと、あの掲示板は実質的な主役だった私― 図らずも、そうなった訳だが ―を引き立ててしまうのが嫌で、新妻が強制的に閉鎖した経緯がある。また、私は一定の研修さえ受ければメンサの入会テストを実施する権利― Test Superviserになる権利 ―を得られるのであるが、新妻は私(正確には、私の職業の一つ)を除外する条項を不合理な形で盛り込み、私にその権利を渡すまいとした(※02)。この辺りを見ても、当時の日本に於けるメンサが如何に新妻― 正確には、彼とその周辺にいる者たち ―により私物化されていたかが分かるというものである。

※01:当時は、あのウェブサイトが日本に於ける(メンサの)実質的なポータルになっていた。
※02:当時、圧倒的な支持を得ていた私が会員を集め出す― それが一大勢力となり、自身の影響力が弱くなる ―のを恐れての事であるが、如何にも新妻らしい卑劣なやり方である。尚、これは掲示板の一件から少し経った頃― JAPAN MENSAの暫定支部が出来て間もない頃 ―の話であり、メンサとの裁判の際に裁判所に提出した訴状にも、その事は記載してある。

 あの掲示板での私を知っているのであれば、そう見えてもおかしくはないのだろうが、当時はこの国に於ける高知能団体― 通常人には理解されにくい程の高い知能を持つ者のための団体 ―の必要性を強く感じており、そのために一肌脱ごうという思いが私にはあった。だからこそ、本物の高知能者であれば惹きつけられるであろう書き込みを連投していたのであるが、残念な事に当の会員たちはそのレベルに達しておらず、果ては妬み・やっかみから躍起になって私を貶めるべく誹謗・中傷を繰り返すという、見るに堪えない醜態を晒すに至ってしまった。しかし、そこで私が身を引いてしまったのでは、”本物の高知能者がメンサに入ると、世間一般以上に苛烈なリンチに遭う”のだと宣伝している様なものである。そこで、私はメンサに於いては知こそ正義である事をアピールすべく、議論を建設的な方向へ向かわせようと軌道修正を試みたのであるが、彼らの晒す醜態は酷くなる一方で、時間の経過と共にその価値は逓減の度合いを増して行った。つまり、私が彼らとの議論に応じたのは目的があってのもの― 本来であれば、彼ら程度の人間は相手にしない ―であり、議論そのものが好きな訳では断じてない。否、”馬鹿との関わり合いは、人生の浪費である”考えている位であるから、嫌いな方である― 必要性を感じない限り避けたい ―と言った方が寧ろ適切である様にすら思われる。
 ところで、このメールを頂いたすぐ後くらいのタイミングで、当時ファンレターを頂いた方の一人(上記メールの人物とは別の人物)から以下のメールが届いた。

>伊賀上さん
>
>14年程前に貴方が、Mensa掲示板で活躍しておられた頃にファンレターを送らせて頂いた…(中略)あの頃、MENSA掲示板での、貴方の圧倒的な強さに、強烈な憧れを抱いたことは、懐かしい思い出です。貴方と、それに蹴散らされし、敗者たちのとのやり取りは、しっかりとWEB魚拓として保存し、論理的思考を鍛える、ある種教材として、機能していたのですが、ハードディスクの破損により、それを紛失をした時のショックたるや、相当なものでした。

 14年も前の一件に絡んだメールを、それぞれ別の方から(ほぼ)同じタイミングで頂いた訳である。ただ、奇遇なのはそれだけではなく、両者から”論破王”ことひろゆき(2ch開設者の”西村 博之”)についての意見― 詭弁・強弁への対処法 ―を求められたのには、少なからず驚いてしまった。やはり、私は議論をしているイメージが強いのであろう。だからこそ、最近なにかと目立っている西村を見て、私の事を思い出したものと思われる。
 以下、彼― もしくは、彼の様な人物 ―への対処法について語って行くが、その前に少しだけ、議論のイロハとも言うべきものを確認しておく。まず、議論は主張と(その)論証を軸として行われるが、論証は大別して”仮定”と”論理”とに分かれ、結論の正しさはこれらの正しさに依存する。この辺り、簡単な例を用いて説明しよう。

  仮定A:日本人は人間である。
  仮定B:人間は哺乳類である。

  結論:日本人は哺乳類である。

 これは、仮定A・Bともに正しく、また論理的にも正しいため、正しい結論が導き出されている。では、次の場合はどうだろうか?

  仮定A:日本人は人間である。
  仮定C:人間は魚類である。

  結論:日本人は魚類である。

 これは、論理的には正しいが、仮定(C)が間違っているため、間違った結論が導き出されている。では、これはどうだろうか?

  仮定A:日本人は人間である。
  仮定B:人間は哺乳類である。

  結論:日本人は鳥類である。

 これは、正しい仮定A・Bに基づいてはいるが、論理が間違っているため、間違った結論が導き出されている。では、この場合は?

  仮定A:日本人は人間である。
  仮定D:人間は魚類である。

  結論:日本人は爬虫類である。

 これは、仮定(D)・論理ともに間違っているため、間違った結論が導き出されている。但し、次の様な場合もある。

  仮定A:日本人は人間である。
  仮定E:人間は爬虫類である。

  結論:日本人は哺乳類である。

 仮定(E)・論理ともに間違っているが、結論は正しい。つまり、以上をまとめると次の様になる。

ⅰ) 仮定・論理ともに正しい場合のみ、結論の正しさが担保される。
ⅱ) 結論が間違っている場合、仮定か論理の少なくとも一方が間違っている。

 ちなみに、日本では高校の数学で背理法を学ぶが、これは”甲である”事が次のプロセスを以て示されるのであるから、上記ⅱの性質が利用されている。

  ”甲である”は偽― 甲ではない ―である(これが”仮定”となる)
⇒ 論理を展開する
⇒ 矛盾が生じる(間違った結論)
⇒ 仮定か論理の少なくとも一方が間違っている
⇒ 論理は間違っていない
⇒ (消去法で考えて)仮定が間違っている
⇒ ”甲である”は真である
⇒ 甲である

 ところで、何かが正しい事を示す際、仮定が間違っているのに論理的な正しさを強調するのは愚かである。例えば、神が存在する事を示す際、そこに至る論理の正しさを力説してみた所で、その根拠― この場合、これが”仮定”となる ―がバイブル(聖書)では何ら意味はない。また、科学とは論理実証主義の生成物であるが、それらは帰納論理― 個別的な事例から一般的な事例を導き出す ―により導き出されている。但し、帰納論理とはどこまで行っても経験則であるから、その命題が真である事を保証する事は決してない。例えば、カラスの生息地から十分な量のサンプルを偏りなく選び出し、その全てが黒ければ”カラスは黒い”という命題はおそらく正しい。しかし、その事実は次に選び出された一羽が黒である事を保証するものではないから、どこまで行っても蓋然性(正しい可能性)の問題でしかない― 100%だとは言い切れない ―のである。
 では、科学と宗教の違いは、その根底にある仮定(根拠)の蓋然性の差― 程度問題 ―でしかないのであろうか?実は、ここが大きく異なる点で、科学に於ける学説というのは、その仮定に於ける蓋然性までをも包括している。わかりやすく― 話を単純化して ―説明すると、90%の確率で正しい仮定に基づいた学説であれば、その蓋然性が90%である点までをも含めて認知され、どんなに確実と思われる仮定に基づいた学説であったとしても、― 確実などというものは、現実世界には存在し得ないから ―それに基づく学説が100%であるなどと認知される事はない(※03)。つまり、科学に於ける学説とは、どんなに洗練されたものであっても、常に議論の余地を残している― 反論が可能 ―のである(※04)。但し、限りなく100%に近い― おそらくは正しい ―仮定に対する、100%ではない事を理由とした反論は”妥当性のない理屈”である。そして、この”妥当性のない理屈”の事を、一般に”屁理屈”と言う。

※03:数学者の広中平祐は嘗て、「科学はインチキの様な所がある」と言ったが、氏はおそらくこの辺りに対し理解が及んでいなかったのであろう。尚、科学とは対照的に、限りなく0%に近い仮定に基づいているにも関わらず100%だと認知するのが宗教であり、広中(平祐)の言う所の”インチキ”である。
※04:哲学者カール・ポパーが、反証可能性の有無を以て科学を定義したのは、まさにこの点を突いているのである。尚、この辺りに関しては、本ウェブサイト記事”科学的であるとは、どういう事か?”でも、少しだけ触れている。

 では、次に議論をする― 正確には、議論を建設的なものにする ―上で守るべきルールについて、語って行きたいと思う。そのルールとは、以下のものである。

α:詭弁を弄したり、誤謬に陥ったりといった事態を避ける。
β:根拠とすべき事柄を適切に選定する。

 ここまでの内容をきちんと理解して来られた方であれば、これらは”正しい― 正確には、ほぼ確実である ―と思われる仮定に基づき(β)、論理を正しく運用する(α)”と言っているのに他ならないから、このルールが正しい結論を導き出すためのものである事に気付くのは、そう難しい事ではないと思う。しかし、実は②にはより感情的なというか、人間臭い要素に関する警鐘が含まれている。以下、それについて語って行く。
 論証というのは、幾つかの仮定の上に― 単数・もしくは複数の ―論理が乗っかる構造になっている。つまり、仮定Pと仮定Qから― 論理的に ―結論Rが導き出され、その結論Rと他の結論、もしくは仮定から別の結論Sが導き出され…といった具合の、トーナメント表の様なピラミッド構造である。換言すれば、このピラミッドのどこから遡っても― つまり、下方に降りて行っても ―、行き着く所は仮定である。即ち、この仮定こそが論証を構成する最小単位であり、不可分要素―自然科学で言う所の観測的事実 ―であるから、これ自体の正当性は論証を以て示されるものではない。
 では、その辺りの正当性は何によって判断されるのかと言うと、基本的には自然科学と同じく観測的事実となる。但し、これは何も有名な学術誌に掲載されている論文の中で触れられていなければならないといった事ではなく― それでは、単なる権威主義であるから ―、必然性に対する感覚に耐え得るもの― コモン・センス ―でさえあれば良い。但し、本ウェブサイト記事”建設的議論”でも述べている通り、コモン・センス― ”人間はいつか死ぬ””監視カメラを設置すれば、犯罪はしづらくなる”など ―とコモン・コーテシー― ”人を殺すのは悪い事だ””廊下は走らない”など ―との区別は重要である(※05)。尚、この辺りを区別する有用な考え方としては、”起源の違う文化を持つどの高度知的生命体が観測しても、同じ結論に行き着くか否か”といった辺りで良いのではないかと思う。無論の事、行き着くであろう事が予想されればコモン・センス、そうでなければコモン・コーテシーである。

※05:コモン・センスに基づいて議論を進めるというのは、事実― 正確には、おそらく正しいであろう事柄 ―に基づいて議論を進めるという事であるから、その否定は”屁理屈”である。一方で、コモン・コーテシーに基づいて議論を進めるというのは、ある種の価値観に基づいて議論を進めるという事に他ならず、これは単に固定観念に凝り固まってしまっている― 建設的に議論を推し進めて行く上で、最も避けなければならない ―状況である。

 さて、この辺りでそろそろ西村について言及して行こうと思う。まず言わせて頂くと、私はこの記事を書くにあたり、初めて西村が議論している動画を見たが、率直に言ってその内容の薄さに驚いてしまった。例えば、最初に見たインターネットの匿名性に関わる議論― 西村・堀江(貴文)と弁護士の紀藤正樹その他が対峙 ―で言えば、以下の理由により議論としての体裁を為していない。

・西村(と堀江)が、自説― インターネット上は、匿名であるべし ―にとって都合の悪いコモン・センス― インターネット上に於ける書き込みを実名にすれば、悪意ある書き込みはしづらくなる ―を認めようとしない。
・そもそも、西村(と堀江)は自説に対し、何ら論証を与えていない。

 つまり、彼らは自身の主張の正しさを示せていないのみならず、都合の悪い事実から逃げ回っている― 屁理屈に走っている ―のである。また、その他の西村の議論も含めて見てみると、― 私が確認する限り ―彼の基本的な手口は以下の2つである。

・本来であれば無条件に認めるべきコモン・センスに対し根拠を求める事により、相手の弱い所を突いている様に見せかけつつ、都合の悪い事実を認める事から逃げる。
・例え話をしている相手の言動を、”(実際に起こった事を言っている訳ではないから)噓を吐いている”といった感じのネガティブな言葉を用いる事により貶める。

 注目して頂きたいのは、これら2つのいずれもが議論の本質に関わるものではなく、単に印象を操作する為のものであるという点である。また、彼が必ず相手にのみ主張をさせる― 「お先にどうぞ」と促しておいて、自説に対する論証は最後まで出て来ない ―という点についても、見逃すべきではないだろう。自説に対する論証がないから、反論もされない。一方で、相手の主張に対しては、上記2つの手法を用いて反論― と言うよりは、もはや誹謗・中傷といったレベルだが ―する。これを、議論として厳正に審査するならば、何も論証し得ていない西村の勝ちはない― 良くて引き分け ―のだが、見た目には彼のみが攻め、相手は防戦一方といった感じであるから、頭の弱い聴衆には、彼の方が優勢であるが如く見えてしまうのである。
 では、彼の様な人物には、どの様に対処すれば良いのだろうか?率直に言って、私ならば相手にしない。なぜなら、建設的に議論を進めて行くに足るだけの知性を持ち合わせず、またする気もない― 自身が優勢であるが如く見せかける事しか考えていない ―人間との関わりから得るものは、何も無いからである。ただ、どうしてもと言うのであれば、やはり彼に先に意見を言わせるだろうか。彼に先に意見を言わせ、その問題点を指摘した上で自説と根拠も述べる。これならば、議論としての体裁は保てている。また、彼のやり方をそのまま真似るというのも一つの手である。先に、相手に主張をさせる。そして、自身にとって都合の悪い自明な事実― コモン・センス ―が出て来たら、際限なく根拠を要求する。その過程で、少しでも相手の主観と思わしきものが入り込んだら、「それ、あなたの感想ですよね?」。例え話に対しては、「(実際に起こった事ではないから)それ、嘘ですよね?嘘つくの、やめてもらっていいでですか?」…簡単である。もっとも、そんなものは議論とは呼べないし、私ならば自らのプライドにかけて出来ないが、議論を不毛なものにし、― 西村が知的な人々をそうさせている様に ―相手をうんざりさせる効果はあるだろう。
 ただ、十分な知性を持ち合わせているという自負があり、手間と時間をかけても良いというのであれば、一番のお勧めは”書面による議論”である。本ウェブサイト記事”議論のあり方”でも述べている通り、書面では非本質的な要素が入り込み難い― ごまかすのが難しい ―から、西村の様な人間に対処する― 破壊的な議論をさせない ―には適した手段と言えるだろう。事実、次の様な記事がある。

論破王・ひろゆきが崩壊! 負けを認めない“見苦しさ”に呆れ声殺到
論破王・ひろゆき“完全敗北”でだんまり…YouTubeコメント削除に冷笑

 書面による議論になった途端、その弱さを露呈してしまっている。彼の手法が印象操作でしかない― 本物の議論が出来ていない ―、何よりもの証左である。

 本物の知性の持ち主による議論― 建設的議論 ―には、見る者を― それが、確かな目を持つ者であれば ―感動させる力がある。西村の様な安物が”論破王”などと呼ばれている事実が示す所は、如何にこの国の人間が知的に拙劣であるかという事であろう。嘆かわしい事である。