以前にも書いた通り、私の仕事の一つは講師業― 塾・予備校・専門学校・大学などで、幅広く教えている ―であるが、私は講師業ほど誹謗・中傷の対象になり易い仕事はないと思っている。まあ、おそらく多くの人は、”先生”と呼ばれる立場の人間であるから、ふんぞり返った態度で仕事をしていると思い込んでいるのであろう。確かに、人に頭を下げる事は殆どないと言って良いかも知れない。また、お金を受け取る方の立場の人間でありながらにして、「お世話になっております」だの、「有難う御座いました」だのと言われる仕事も珍しいとは思う。しかしながら、我々は常に生徒や学生― 或いは、その保護者 ―に対しては重い責任を負い、また同業者に対しては戦い続けなければならない立場にある。躍起になって誹謗や中傷に走る人間が思う程に気楽な仕事でない事は、強調しておきたいと思う。
強調ついでに、もう一つの誤解されやすい点についても述べておこう。我々はとかく、合格実績ばかりを重視している様に思われがちである。確かに、我々や我々が所属する団体の評価に繋がるから、全く気にしていないと言えば噓になるかも知れない。また、我々は教育のプロであるから、建前上は何が何でも合格させなければならないというのも、また事実である。だが、率直に言って我々業界人は、全員合格などという事は確率論的に起こり得ない事を知っている。つまり、この点に於いて職業倫理上の問題は、確実に生じてしまうのである。だから、我々が正当性を自覚し得るには、別の倫理的観点が必要となってくる。この辺りに対する考え方は、講師によってまちまちであろうが、私は”この先生に教えてもらって駄目だったのなら仕方がないと”思ってもらえるなら、自分の責任は果たせたと考えている。つまりは、悔いのない受験をさせる事こそが、我々が果たすべき最低限の責任であると、私はそう考えているのである。
ところで、先日その”そればかりを重視している訳ではない”合格実績について、知人― 高校教師 ―に尋ねてみる機会があった。高校は、浪人までをも含めて自校の実績としてカウントするが、あれは何故なのか?…と。それに対する彼の答えは、その生徒の学力に寄与しているからだと言う。しかし、それを言うならば中学校もそうであろうし、更にはその基礎を形成した小学校や幼稚園、果ては嘗てその生徒の素朴な質問に答えた― その生徒の知育に僅かながら貢献した ―事のある、三丁目の角のタバコ屋のおばあちゃんまでをも含め、実績として主張する権利を認めなければならなくなるだろう。更には、例えばある生徒が現役で千葉大に合格したとすると、その高校の実績としては千葉大が一つカウントされる事になるが、仮に一浪して東大に合格したとすると、その高校は何もしていない― この点が重要である ―にも関わらず、一年待っただけで千葉大の実績が一つ消滅する代わりに、東大の実績が一つ増える事になる。生徒の学力に寄与している事を理由とするならば、寄与の度合いが同じ両者に於いて実績に違いが生じている時点で、論理が破綻してはいないか?
論理に疎い人間ばかりの中で生きて行く事の大変さを、改めて実感した一日であった。