倫理教育

 人格を形成する上で、倫理教育は必要か?…と聞かれて、否定する人間は少ないだろう。しかし、そこで一歩踏み込んで、ならば倫理教育とはどうあるべきで、何故にそうあるべきなのかと聞かれて答える事の出来る人間となると、これはほぼ皆無であろう。少なくとも、倫理・道徳といった言葉を、むやみに口にしたがる人間よりも少ない事だけは確かである。ここでは、この問題について述べて行きたいと思う。

 まず、倫理の本質は、客観的事実ではなく、また、それに基づく論証も為されていないもの…即ち、思想である。となると、倫理的であるか否かといった議論をする前段階に於いて、それは倫理として適切なのか、即ち、その思想を根底に据える事が果たして正しいのか否かといった考察が、行われていなければならないはずである。
 しかし、倫理という言葉をむやみに使いたがる人間が、そこまで考え抜いた末に使っているケースは稀である。いや、むしろ、そこまで考え抜く、若しくは、そこまで考え抜く必要性に気付く程の知性の持ち主であれば、そう簡単には使えない言葉であると言った方が適切であろう。単なる一個人の価値観を押し通す為、”倫理”という語感の良い― 世間的に、正しいものを示すとされている ―言葉を使う(※01)。そして、それを使っている当の本人も、自ら使った語感の良い言葉で思考停止に陥り、その単なる一個人の価値観に過ぎない”わがまま”が、あたかも正当な主張であるかの如く錯覚を起こしてしまう。これはあまり、意識されていない事かも知れないが、馬鹿の存在というのは明らかに、社会にとって有害である。
 倫理というのは社会規範であるから、個人が自らの価値観に基づき決める事、即ち、自身の気に入った考え方を倫理であると、各自勝手に主張するのが不適切である事は明らかである。ならば、何を以て倫理の源流とすべきかと考えると、これはやはり法治国家である以上、憲法を置いて他にないだろう。そして憲法では、個人の自由と平等…即ち、他者の権利を侵害しない範囲での自由が認められている。となると、民主主義国家に於ける倫理としては、”ある種の思想を押し付ける事”ではなく、”たとえ可能であったとしても、ある種の思想を押し付けない事”の方が、より適切である様に思われる。
 では、学校などで行われている倫理教育が、果たして適切なのかと考えると、これらは特定の思想に基づいて行われており、しかもかなり押し付けがましいものであるから、本来あるべき姿とは真逆である。また一方で、特定の思想に依存しない考え方をする上で必要なのは、客観的視野に立ったものの見方であるから、倫理を実践させるべく必要な素養というのは、論理的な思考力― これは、多くの日本人(非白色人種)が苦手とするものである ―に他ならない。従って、現在学校教育などで行われている倫理教育の時間は、本来ならば思考力― 耳障りの良い言葉で脚色するだけのレトリックではなく、論理的に考えを推し進める本物の知性 ―の涵養に充てがわれなければならない。
 私が教育改革を任されたならば、次の様にする。まず、ごく初期に於ける教育は、国語と英語、及び算数のみとする。そして、ある程度の文章力と語彙力が身に付いた頃― 概ね、10歳前後くらいであろうか ―を見計らい、今度は国語の授業を、国語と法律に分ける。配分としては、法律を多めに取って良いだろう。また、国語は論説文を主とし、法律は学問としての法律と実務とを両方扱う。尚、法律を学ぶ事は、論理的な思考力や、日本人の苦手な論理的な文章を読み書きする能力の育成に繋がり、更には社会のルールも同時に学ぶ事になる(※02)から、これは非常に効率の良いやり方である。ちなみに、この頃になると算数も、実用的なものから、より学問的な色彩の強いもの…即ち、数学に移行しても良いと思う。一方で、理科や社会といった科目だが、これは15歳を過ぎた辺りからで良いだろう。これらの素養としての部分は、論説文の学習を通じ、ある程度まで学べるだろうし、初期の教育に於いては、こういったものよりも、もっと基礎的な能力の充実を図るべきである。尚、技術系・芸術系・体育系の科目については、学校教育の中でやるべき事ではない様に思う。また、倫理教育、及び、それに類似する教育(平和授業など)は、先に述べた理由― 民主主義体制の下に於いて、特定の思想を押し付けるような授業など、行うべきではない ―により、一切行わない。
 但し、これを実現する為には、クリアしなければならない問題がある。まず、法律の授業を担当するとなると、当然の事ながら法律学、並びに、法律実務の双方に詳しい人間でなければならないが、実務に詳しいという条件に鑑み、法曹三者の経験者、若しくは、判例・裁判例に精通している者(主として、研究者)という条件は外せない。しかしながら、残念な事に日本の法曹三者、並びに研究者を含む文系分野の人材の質は、決して高くはない。例えば、近年急激に増えつつあるノーベル賞受賞者― これは、とかく批判の対象となり易い戦後の日本の教育のあり方の少なくとも一部は、間違っていなかったという事実を示している様に思う ―の中に経済学賞受賞者はいないし、論文の被引用数に於いても、理系分野の多くが世界20位以内に食い込んでいるのに対し、文系分野で世界100位以内に入る学部・学科は、現在に至るまで一つとして存在しない(※03)。つまり、日本の文系分野に於いては、そのトップレベルの人間でさえも独り善がりな、即ち、非論理的な論文しか書けないというのが実情なのである。
 無論の事、文系分野にも立花隆(※04)や石原慎太郎、江川紹子など、優れた知性の持ち主が一定数は存在するし、理系分野にも馬鹿は多数存在する。しかし、文系分野の人材の質が全体として低いのは、やはり、その選抜段階、即ち、大学の入学試験に問題があると考えるのが妥当であろう。論理というのは、理解するのも勿論だが、それを構築するのは、その何倍も難しい(※05)。つまり、これには相応の資質が必要となるのであり、高等教育を施す上で有意な人材を採る(※06)という点から考えると、文系分野の入学試験に於いても、理系分野の人間に求められるのと同程度の数学の学力を要求する(※07)等、何らかの対策を立てる必要があるだろう。
 ところで、法律を整備してみた所で、それが十分な罰則を伴わないならば、それを最も守らせたい人間、即ち、本当の意味で倫理的でない人間に対し効力を発揮せず、一方で、それを余り必要としない人間に対しては、精神的な圧力をかけてしまう。つまり、罰則を伴わない、若しくは、その罰則が十分でない法律を制定する事は、”正直者が、馬鹿を見る”事にしかならない。そこで、十分な罰則を課す必要が出て来るのであるが、これには”人権”の問題が絡んでくる。
 現在の憲法では、法の手続きに則った刑罰が認められている(日本国憲法第31条)が、拷問及び残虐な刑罰は禁止されている(日本国憲法第36条)。これは、場合によっては(社会秩序の維持のため)人権侵害の必要性を認めるが、それが過度のものであってはならないという事であるが、私はこの辺り、甚だ疑問に思う。例えば、附属池田小事件(※08)や秋葉原通り魔事件(※09)などの犯人は、半ば死刑を宣告される事を想定した上で犯行に及んでおり、これは現状許されている最も重い刑罰(絞首刑)を以てしても、犯罪抑止力はなかったという事を意味している。だが、ここで考えて欲しい。もしこれ(絞首刑)が、ISIL(イスラム国)がやる様な生きたままの首切りや焼殺、或いは、清の時代まで中国で許されていた凌遅刑だったとしたら、どうであろうか?もしかしたら、あの犯罪は防げていたかも知れないと思うのは、私だけであろうか?
 犯罪加害者の人権を、無視しろとは言わない。しかし、少なくとも被害者は、加害者により人権を侵害されているのであり、軽い刑罰では犯罪を抑止できないという事実は、被害者と加害者の人権が両立し得ないケースがある事を意味している。被害者と加害者、人権を侵害する者とされる者の人権が両立し得ない場合、これはどちらを選択するべきであろうか?国家の持つ目的― 社会の治安維持 ―に照らし合わせて考えるならば、これはやはり被害者の方であろう。つまり、日本という国家が本来あるべき姿に近づくためには、憲法36条は改正されなければならないという事である。
 ところで、問題をとかく法律で解決する様な主張をするとよく、「法律が全てか?」といった反論をする者が出て来る。率直に言うが、法律が全てである、いや、より的確な表現をするなら、法治国家である以上、法律が全てである”べき”である。ちなみに、こういった反論に対しては、私は次の様に応える事にしている。

「法律が全てでないならば、君の言う事が全てでは尚の事ない。それとも何か?君は、君自身が法律だとでも、言うつもりなのか?それならば私は、これ以上の議論をするつもりはないよ。私は、馬鹿は嫌いだからね」

 法律は現状、完璧ではないし、完璧なものに仕上がる事など、未来永劫ないだろう。しかしそれは、現状で満足すべきでない理由にはなっても、特定の誰かの横暴を許す理由にはならないはずである。社会に於いて守られるべくルールは、然るべき手続きを経た上で合議により決められるべきものであり、特定個人により勝手に決められるものでは断じてないし、また、この原則が守られない国家は、法治国家とは呼べない。
 話が多少、複雑なので、最後に少しだけまとめておく。本当の意味で倫理的な社会を実現する為に必要なのは、ある種の価値観の押し付けなどではなく、知性の涵養と、適切な法律の制定、及び周知、そして、それを遵守させるべく動機づけ(十分に厳しい罰則)である。これを実現する事は、かなり思い切った改革になるが、我々が住む社会が、より良きもの― 正しい者が、報われる ―になる事を望むならば、これは、避けて通る事のできない道である。

※01:この種の人間により使われる場合、”倫理”は時として、”道徳””常識”と形を変える。これらは明らかに同義ではないが(特に、”倫理”や”道徳”と”常識”)、”正しいものを示す”とされている言葉を使う事による”権威付け”が目的なのであるから、この種の人間にとって、そんな事はどうでも良いのである。
※02:社会人として世に羽ばたく準備をしなければならない時期に、社会のルールたる法律を全く学ばせようとしないに至っては、驚嘆に値する。更に言えば、日本の法曹関係者の中には、自身の価値観にそぐわない人間を、その法的無知を良い事に騙そうとする輩も少なくなく、それらに騙されない為にも、万人が法律の知識を持ち、必要とあらば調べられる程度の素養を持つ事は必要である。
※03:米トムソン・ロイター社の調査結果による。
※04:尤も、立花隆は色弱というハンディキャップの為、敢えて文系を選んだという経緯があるから、本来ならば理系の一人として数えるべきなのかも知れない。
※05:これは、例えば数学なら、”解説を読んで分かる”と”自力で解ける”の違いだと考えれば、理解し易いのではないかと思う。
※06:知的資質の乏しい者に高等教育を施した所で、支離滅裂な論理と知識を振り翳すだけの詭弁家を生み出す事にしかならず、これは害悪以外の何物でもない。民間の企業ならばともかく、国家の補助を受けている、即ち、税金が投入されている高等教育機関に於いて、こういった状況が生じる事は明らかに適切ではない。
※07:一般に、欧米の大学では、希望する専攻別の募集というのは行われず、その大学の入学希望者全員が同じ枠を争う形となる。その為、入学試験の科目は希望する専攻に関わらず同じであり、その中には当然、数学が含まれる。つまり、欧米では、大学への進学を希望する以上、基本的に数学(高度な思考力を要求される学問)を避けて通る事は出来ず、この事が、日本と欧米の文系分野の人材の質の違いを生み出している主要な要因の一つであると考えられる。
※08:宅間守元死刑囚(2004年09月14日に執行)が、大阪教育大学附属池田小学校に押し入り、1年生と2年生の児童8名を殺害し、児童13名と教諭2名に傷害を負わせた事件。その動機は、エリートへの羨望や嫉妬という、極めて身勝手なものであった。
※09:加藤智大死刑囚が、秋葉原でトラックや刃物等を用いて通行人を襲い、7名を殺害、10名に傷害を負わせた事件。人生が思い通りに行かず、自暴自棄になった末の犯行であった。